『別冊BUBKA』(コアマガジン)
この原稿は、コアマガジンの『別冊BUBKA』のギャンブル・コーナーに、パチンコのことを書いた原稿です。といっても、いまのパチンコのことは何も書くことがないので、僕が『パチンコ必勝ガイド』を創刊したころのことを書いています。創刊号から7回連載して、飽きたのでやめました。飽きた理由は、原稿料をもらえなかったからではありません。(スエイ)
1 真面目な遊び人・田山幸憲
知り合ったのは、いまから十三年前で、田山さんは池袋の山楽会館というパチンコ店をネグラとして、日々ハネモノを打っていました。パチンコのことは何も解らないまま、パチンコにハマった勢いでパチンコ雑誌を出すことになって、当時「東大中退のパチプロ」ということで、雑誌やスポーツ新聞にときどき紹介されていた田山さんに会いに行ったのが最初です。当時、すでにパチンコ雑誌は三誌あって、その中の一誌に毎日三万、四万と稼ぐパチプロの記事が出ていて、僕はパチプロとはそういうもんだと思っていましたが、田山さんの稼ぎを聞いてちょっとガッカリしたことを覚えています。平均すると五、六千円、月に十八万ほど稼げばいいと言うのです。
田山さんはお金に執着のない人でした。稼いだお金で、その日の酒代が出ればいい、欲を言えば飲んで帰って千円余っていればいい、その千円を机の引き出しにためておいて、病気になったときの保険にすると言っていました。
僕は、どうやったら派手に一日三万、四万稼げるのかを聞きに行ったのですが、田山さんの話は地味で、でも地味だからこそ正直な感じがして、田山幸憲という人に興味を持ったのでした。
パチンコのことがだんだん解ってくると、一日三万、四万稼ぐことは無理、それは嘘だと解ってきました。嘘を書いていればいずれ読者にバレるもので、その派手なパチプロはいつの間にか姿を消しましたが、田山さんに連載してもらうことになった「田山幸憲のパチプロ日記」は、田山さんが病気になって書けなくなるニ〇〇一年一月まで続き、多くの読者に共感を呼びました。田山さんに会いたくて、わざわざ地方から出てくる人もあとを経たず、田山さんに影響を受けたパチプロも多かったと思います。
田山さんは社会からはぐれた人でした。だから、はぐれ者に対して優しい人でした。田山さんと田山さんを取り巻くパチンコ仲間と飲んだりしていると、社会に適応してうまくやっている人の方がズルイと思ったりしました。それは、自分のズルさを再認識することでもありました。その罪滅ぼしのような気持で、僕は社会からはぐれた人のためにパチンコ雑誌を作ろうと思いました。
その田山さんは、ニ〇〇一年七月四日に、五十四歳という若さでこの世を去りました。自分の美学を崩すことなく、自分の生き方を曲げることなく、真面目に「遊び人」を続けた人でした。田山さんのお葬式は七月七日、77の日に行われ、みんな目を真っ赤にしていました。
田山さんが亡くなる前のニ年間の日記を集めた『田山幸憲のパチプロ日記・第十巻』が、いまベストセラーになっています。
2 新装開店(半)プロ・山崎一夫
一発台というのは、どう見ても玉が入りそうにないところに、玉がポコッと飛び込むと、通常は開かないチューリップが開いて玉が出っ放しになる台です。お店が決めた定量個数があり、だいたい五千発ほど出ました。
一発台の新装開店回りを一緒にやっていたのは、山ちゃんです。山ちゃんは、本名を山崎一夫といい、銀玉親方というペンネームも持っています。
僕が『パチンコ必勝ガイド』を始めたころ、山ちゃんは弁当屋さんを二軒経営している青年実業家でしたが、僕がパチンコの記事を頼んだのがきっかけで、弁当屋さんを放ったらかしでパチンコばかりするようになり、雇っていたオバサンにお金を持ち逃げされ、弁当屋さんは潰れてしまいました。
それでなんとなくパチンコ・ライターになったわけです。銀玉親方というペンネームは、パチンコ・ライターになってつけたものです。
一発台が健在だったころは、新装開店情報はいまほど公開されていませんでした。パチンコ屋さんは、新装開店で地元の常連さんに甘い汁を吸わせ、ジワジワ絞り取っていくのが目的ですから、甘い汁だけ吸いにくるお客さんは、害虫のようなものです。
まず、常連さんに甘い汁を吸わせる目的があったから、新装のときは出しました。いまは新装開店といったって、負けるようになっています。台の寿命が短くなったので、台にお客さんをつけようなんて考えません。当時は、新装開店の店を見つけたら、お金を拾ったようなものでした。
新装開店の店を見つけてくるのは、山ちゃんの仕事でした。では、どうやって新装開店の店を見つけるのか。山ちゃんはまずスポーツ新聞を買ってきます。そして、求人欄を見て、「パチンコ 新規開店につきホール係募集」とかの箇所に印をつけ、片っぱしから電話します。「あの、そちらの店で働きたいんですけど。開店はいつですか」と聞くと、たまにポコッと開店の日を教えてくれたりします。
また、自転車で都内を走っているとき、工事中のパチンコ店があれば、工事の人に「開店はいつですか」と聞きます。開店日は口止めされているので、なかなか教えてくれませんが、そういうときは向かいの煙草屋さんに手土産を持って行って、「開店したら電話して下さい」と言って、名刺を置いてきます。
新装、新規開店の日が分ると、山ちゃんは電話で教えてくれました。開店時刻はたいてい夕方の五時か六時で、実質三、四時間しか打てませんが、それでも二、三万は楽勝でした。玉が出過ぎて開店一時間で閉めた店もありました。
新装開店に行くと、ヤクザもどきの開店プロもいて、台の取り合いになりましたが、それもいまでは楽しい思い出です。
山ちゃんと開店に行き、二人で勝って、その街の居酒屋で酒杯を上げるのが楽しみでした。
3 『パチンコ必勝ガイド』のヘンな編集者
話はそれましたが、『パチンコ必勝ガイド』の立ち上げは、いまはポリエステル100%という麻雀屋のオーナーになっている河本君と僕の二人でした。二人ともパチンコはズブの素人で、一号はなんとかでっち上げたにしても、続けていけるかどうか不安でした。
三人目に入ってきたのは、いまは『野球小僧』という雑誌の編集長をしている成澤君だったと思いますが、『パチンコ必勝ガイド』が売れて、月刊化することになって、一気に人が入ってきたので順番は覚えていません。会社にほとんど来なくて、パチンコばかりしているのもいました。月に三日ほどしか来ないのでやめてもらいましたが。
ものすごく臭いのもいました。とにかく臭い。三メートルほど近づくだけで、ものすごいにおいがするのです。体臭というのは本人の肉体上のこともあるので、誰もそのことには触れませんでしたが、あとで分かったことは、それは肉体上のことではなく、風呂に入ってなかったからでした。編集部を出ると『近代麻雀』を読んで気分を高揚させ、麻雀屋に乗り込むという毎日を送っていました。いつ寝ていたんでしょう。
パチンコ店でスカウトした編集部員もいました。僕が毎日行っていた高田馬場のパチンコ店で、いつも一発台を打っている男の子がいました。聞いてみると予備校生とかで、予備校生のくせに一発台しか打たないというのは見上げた根性だということで、編集部で働いてもらうことになりました。何代目かの編集長になりましたが、いまはどこにいるのでしょうか。
パチンコの景品交換所でスカウトしたのが、パチスロのS君です。景品を交換するまでは、美容師になるつもりで美容学校に通っていたのに、人生いつ転機が訪れるか分らないものです。S君は、いまは他所の出版社でパチスロ雑誌を作って活躍しています。
記憶喪失の人が迷い込んで来たり、机の引き出しに大人のオモチャをいつも入れているのがいたり、ヘンな奴ばかりでしたが、思い出すと懐かしくなります。
4 「出しまっせ」大阪の釘師
店員がマイクを床に落としたら、マイクオンになっていたので、ドーンとすごい音が店内に響き渡りました。それを合図に、先頭の人が自動ドアをこじ開け入ってきたそうです。このときは、一時間早く開店してしまったそうですが、新装開店のときはうかつに音も出せません。
一番前にお爺ちゃんが並んでいました。大阪のパチンコ店のことです。五時開店、軍艦マーチとともにドアが開いて、お客さんがドドドッとなだれ込んできました。お爺ちゃんは後ろから押されてコケました。そんなことにかまっている暇はありません、お客さんはお爺ちゃんを踏みつけながら、ドドドドッと入ってきます。お爺ちゃんは、このとき前歯が三本折れたそうです。当然パチンコ店が治療費を持つことになりましたが、お爺ちゃんはチャッカリ金歯を三本入れたとか。転んでもタダでは起きないとはこのことです。
この新装開店の演出を任されていたのが、昔は釘師でした。徹夜で釘調整し、翌日の新装開店のときは、スーツ姿で店員の手伝いをしています。手伝いながら、自分が調整した台がどのような出方になっているか見ているのです。そして、その夜、出玉データを見ながら、また調整します。通常は少しづつ釘を閉めていくわけですが、店によっては、開店プロ対策で、初日は出さず二日目、三日目あたりから釘を開けるというところもあるようです。
大阪で三軒の店を任されているという、フリーの釘師に会ったことがあります。車に乗せてもらったら、ものすごいスピードで恐くなりました。三軒の店が離れていて、一晩に回らないといけないので飛ばすクセがついているそうで、「大丈夫ですよ、事故は起こしませんから」と言っていました。
この釘師に聞いても、「大阪は出しまっせ」と言っていました。この釘師が新装開店の釘をたたいているのを見たのですが、開店プロ対策で端の方の台の釘を閉めていました。開店プロは顔が割れているから、隅の方に座りたがるのです。
新装開店の日、確かに開店プロみたいな人たちが先頭に並んでいました。軍艦マーチとともに、開店プロが入ってきましたが、端の台をしばらく見ていたかと思うと、サッと帰りました。このときは、お互いにプロなんだなぁと思いました。
いまは、こういうフリーの釘師は少なくなり、店長自らが釘をたたいている店が多くなりました。中には一年中釘を動かさない万年釘の店もありますが、釘を頻繁に動かす店の方が出しているのは確実です。どういう釘の動かし方をするのか見破るのが、勝つ秘訣です。
5 科学の元、クマちゃん先生
あるとき、そちらで働きたいという男の人からの電話があり、編集部の近くの喫茶店で面接することにしました。やってきたのは、背が高く、眼鏡をかけ、きりっとした感じの青年で、それがクマちゃん先生でした。自分は東工大の学生だが、中退してアルバイトでもいいから編集部で働きたいと言います。東工大といえばエリート大学なわけで、「せっかく入ったのに、それはもったいない。いまからでも遅くないから大学に戻った方がいい」と言いましたが、本人はどうしても編集部に入りたいようで、「それじゃあ」ということで働いてもらうことにしました。
クマちゃん先生が最初に取り組んだ仕事は、ドンスペシャルBというデジパチの研究でした。ドンスペシャルBはなかなか当たらないが、当たるとよく連チャンする台でした。連チャン機の走りです。しかし、なぜ連チャンするのか、台を買ってきてプログラムを解析しても解りません。クマちゃん先生は、机の前に台を置き、くる日もくる日もデジタルを回していました。夜になっても帰りません。朝会社に行くと、台の前で眠っています。それを見ると、感動のようなものがこみ上げてきました。
ドンスペシャルBの攻略法は、読者からの投稿で発覚することになるのですが、それを完成させたのはクマちゃん先生です。単発回しという方法が、世に初めて登場することになります。それ以後、クマちゃん先生が発見した攻略法は数知れません。一時期、梁山泊というパチプロ集団が、春一番という台を攻略して全国のホールを荒し回ったことが話題になりましたが、あの攻略法を考えたのもクマちゃん先生でした。梁山泊が独自に考えたように言っていますが、『パチンコ必勝ガイド』に載せたものの、難しすぎて誰もできなかっただけのことです。
クマちゃん先生は、理屈が合わないことは絶対信用しません。それはものすごく頑固でした。そのクマちゃん先生から、「末井さんはパチンコのシロートだ」とよく言われました。その理由は、わざと負けるような打ち方をすることもありますが、僕が反科学的なことをよく言っていたからでしょう。パチンコ用語では、そのことをオカルトと呼びます。現在、オカルトの第一人者は、漫画家の谷村ひとしさんです。
そのオカルト信者として、いま夢中になっているCRグラディエーターの攻略法をお教えしましよう。
打つのは午後から、1回以上大当りしている台で、デジタルが50回転以内の台があったら、150回ぐらいまで回してみましよう。この方法で、いまのところ負け知らずが続いています。BARで当ったら、また150回まで回してみます。回りがよければ200回まで回してみてもいいですが、200回を越えたら絶対打たないこと。試してみて下さい。
6 パチンコのガリレオ、石橋達也
僕が『パチンコ必勝ガイド』を創刊したころは、デジパチのデジタル回転数を気にする人なんて皆無でした。では、何を根拠にパチンコを打っていたかというとただただ運まかせで、大当たり確率さえ分らないまま打っている人が大半でした。そこに「期待値」という理論を持ち込んだのが、『パチンコ必勝ガイド』で原稿を書いてもらっていた、パチプロの石橋達也でした。天動説を唱えたガリレオみたいなもので、この「期待値」理論でパチンコに対する考え方が大きく変わったのです。
この「期待値」理論とはどういうものかと言うと、たとえば大当たり確率250分の1の台で、1回の出玉が7000円相当だとすると、7000円でデジタルを251回以上回せれば勝てるというものです。1000円当たりに換算すれば、36回以上ということになります。そんなの当たり前だと言う人がいるかもしれませんが、ガリレオ登場以前はみんな太陽が地球の周りを回っていると思っていたように、デジパチは当たる時は当たるというのが、世のパチンカーの考え方でした。
「デジパチを打つ時はデジタルの回転数を数えた方がいいですよ」と石橋達也に言われ、それからは僕も回転数を数えるようになったのですが、当時はインジケーターなんてあるはずがなく、1回、2回と頭の中で数えるわけで、慣れないうちは途中で分らなくなることもしばしばでした。いまでは、インジケーターが付いていても、自然と頭の中で数えていますが。
みんながデジタル回転数を気にするようになったのは、「期待値」理論を載せた『パチンコ必勝ガイド』を初めとするパチンコ雑誌の影響で、それにともなってインジケーターも登場したというわけです。では、このインジケーターはなんの役に立つのかと言うと、なんの役にも立ちません。それは、1000円当たり何回デジタルが回っているかという表示がないからです。そんなこと言うと身も蓋もありませんが、これは事実だから仕方ありません。ただし、台を選ぶ際の目安になっていることは事実です。
たとえば、大当たり回数8回、デジタル回転数67回の表示がある台と、大当たり回数1回、デジタル回転数986回という台があったとしたら、あなたはどっちの台を打ちますか? 前者の台を選ぶ人は、この台はよく当たっていて調子がいいからまだまだ当たると思い、後者の台を選ぶ人は、これだけ当たってないんだからもうそろそろと思うわけで、どっちを選ぶかはその人の性格に左右されます。前者は楽天的で、後者は心配性ということでしょうか。僕だったら前者の、大当たり回数が多くてハマリのない台を選びます。僕が楽天家ということもありますが、最近の台はウラモノも多いようで、大ハマリの台は極力避けた方が無難だからです。
それはさておいて、パチンコのガリレオ石橋達也は、いまどこで何をしているのでしょう。
7 パチンコ台はどのように変るか
「パチンコ・パチスロ産業フェア」は、パチンコ、パチスロの新台、及び周辺機器などを一堂に会した大規模な展示会で、車のモーター・ショーのようなものです。2年に1回、2月に行われて来たのですが、今回は開催が半年延びて8月になりました。
今回の産業フェアで注目されていたのは、新内規のパチンコ台です。産業フェアの3カ月ほど前、パチンコ台の内規(パチンコ台を作る上での規則)が突然変わり、各パチンコ・メーカー、開発中の台を新内規に急遽変更することになりました。新内規の台を産業フェアに出すため、連日徹夜だったメーカーもあったそうです。
徹夜の甲斐あって、どのメーカーも新内規の台を展示していました。一番目を引いたのが京楽産業のCRジュラシックパーク・シリーズで、映画の「ジュラシックパーク」のパチンコ台です。特徴はデジタル画面上にある恐竜の爪。リーチ、再抽選時にこの爪が動きます。動くと言えば、台の右下にあるリアルな恐竜の目、この目が動いたり、牙が出たりします。
ピンクレディもパチンコ台になりました。大一のCRピンクレディ・シリーズ、UFO、ウォンテッド、サウスポー、モンスターと懐かしい曲が流れてきます。
西部警察もパチンコ台になりました。ニューギンのCR西部警察・シリーズです。懐かしいあのドラマの名場面が写真で出て来ます。
さて、では内規はどのように変ったのかと言うと、大当たり終了後の時短が許可されたのでした。CRモンスターハウスや、CR大工の源さんなどは、確変終了後、デジタル100回転までの時短、つまり玉を減らさないでデジタルを100回まわすことが出来たのですが、その後内規の変更でそれは禁止になりました。そして、また復活したのです。このように、パチンコやパチスロの内規はコロコロ変ります。
今回は、確変終了後のみならず、単発の大当たりでも100回転までの時短がついているのが特徴です。それをフルスペック台と呼び、確変終了後のみ時短がついているのをモンスター・タイプと呼んでいます。
単発で大当たりしたあとも、玉を減らさず(電動チューリップが頻繁に開く)100回転までデジタルをまわすことが出来、その間に再度大当たりを引くこともあるわけですから、単発でも希望が持てるようになりました。しかし、良くなるところがあれば悪くなるところもあるのがパチンコ台で、時短がついたぶん大当たり確率が悪くなりました。フルスペックで約350分の1、モンスター・タイプで約325分の1です。いまのCR機の大当たり確率が約315分の1ですから、だいぶ悪くなります。平均すれば、約1時間で1回ぐらいの割りで大当たりになっていたのが、フルスペックだと1時間20分に1回ぐらいになります。そして、単発で大当たりしても、時短100回転がもったいないので、すぐにやめられなくなります。つまり、時間がない人には不利ということです。
この号が出るころには新内規の台が各種出揃っているはずですが、打つ時間によってフルスペック、モンスター・タイプ、旧内規の台と、台を選んで打つようにしましょう。1日中打てる時間があれば、文句なくフルスペック台でしょう。
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