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アルバムで振り返るスエイ君とアキラ君

スエイさんのお家から、古めかしい写真アルバムが出てきまして、その貴重な写真を元にスエイ君とアキラ君に解説をお願いしました。



いじめから解放されてニコニコのアキラ君(左から2番目)

●スエイ この写真、何歳くらいのときかなぁ?

▲アキラ これは小学校の2年か3年のときでしょう。

●スエイ でも、下のほうに昭和36年って書いてあるけど。

▲アキラ 昭和23年生まれだから、13歳のときか。じゃあ中学生のときだね。

●スエイ いやいや、隣りに2月と書いてあるから12歳。6月生まれだから。小学校最後の学芸会だと思うよ。後ろの松の木を描いたの覚えてる?「アキラちゃんは絵が上手い」って誉められて描かされたでしょう。

▲アキラ なんとなく覚えてる。ものすごく大きい絵を描いたように覚えているけど、写真で見ると大して大きくない。

●スエイ この劇は股旅モンだね。方に荷物をぶら下げているから。

▲アキラ 覚えてないけど、「弥次さん喜多さん」かな。いや、これは杖をついてるからアレだね、メクラの役だね。「座頭市」じゃないかな。「座頭市」ってそのころあったかな?

●スエイ 隣が在日のM君。仲良かったんだよね。みんなからいじめられてたけど。

▲アキラ ホルモン焼きをこっそり持ってきてくれて。家で焼いて食べたらおいしかった。あんなおいしいものを毎日食べられるM君がうらやましかった。

●スエイ いじめられたことで思い出したけど、小学校のときすごくいじめられたよね。

▲アキラ 「肺病たれ」って。いじめのきっかけを作ったT君の家に火をつけてやろうと、いまだに思っているね。

●スエイ この頃はもういじめから解放されてたね。だからか、ニコニコしている(左から2人目)。

 


お父さんと2度目のお母さん


もくもくと働いていた2度目のお母さん

●スエイ これは母親と父親、雰囲気がもうビンボーだよね。

▲アキラ 母親といっても、二度目の母親。「お母ちゃん」ってなかなか言えなくて、しばらくは「オバサン」って呼んでいた。

●スエイ 字が読めなかったし、あまり話をしなかった。ただもくもくと働いていた。

▲アキラ ガンビっていう木を山から切ってきていたんだけど、ボロボロの格好をして、木の束を背負って学校の前を通るのが恥ずかしくて。「アキラちゃんのお母さんが通るで」とかみんなに言われて。

●スエイ ガンビね。懐かしい。和紙の原料で結構お金になっていたもんね。この写真はいつごろかなぁ。

▲アキラ 僕らが東京に出てきてからだね。町の町営住宅に住んでいたころでしょう。もう気が狂ってたころかもしれない。

●スエイ あれは辛かったね。お土産に饅頭なんか買って帰ると、「毒が入っとる」とか言って投げつけられた。

▲アキラ 親父が精神病院に入れるんだけど、すぐに自分が寂しくなるもんだから、精神病院から背負って連れて帰って、また精神病院に入れて。その繰り返し。

●スエイ 死ぬとき親父に「アホ!」と言って死んだ。

 


お父さん。芸事が好きだった

●スエイ これは親父。

▲アキラ 風呂に入って「浪曲子守歌」を歌っていて死んだ。

●スエイ 町営住宅は安普請で、隣の物音がよく聞こえるんだけど、隣のオバサンに聞いたら「浪曲子守歌」が聞こえてきて、2番で聞こえなくなったと言っていた。

▲アキラ ♪ど~こ~かぁ似ている飯炊きおんな~ あたりで死んだのかなぁ。

●スエイ NHKの「のど自慢」の予選が受かって、念願のテレビに出られるということで、練習していたのかなぁ。

▲アキラ 芸事が好きな親父だったよね。

 


小学校の卒業写真
拡大↓


穏やかな表情のアキラ君

●スエイ これは小学校の卒業写真。

▲アキラ これで6年生全部、14人か。

●スエイ 複式学級で5年生と6年生が一緒に勉強するんだよね。

▲アキラ 僕の隣の隣りが小林先生。母親代わりで随分お世話になった。

●スエイ 雑誌の仕事をするなんて夢にも思っていなかったころだね。

 


修学旅行は東京ではなく九州を選択

●スエイ これは高校生じゃないかな。

▲アキラ そうだね。阿蘇山じゃない? 修学旅行は東京か九州どっちか選べるんだけど、いずれ東京には行くだろうと漠然と思っていたから九州のほうを選んだんだけど。

●スエイ 田舎が嫌だったからね。

 


通販でカメラ買って嬉しかった頃


いまは立派な道路ができている

●スエイ これも高校のときだよね。

▲アキラ うん。家の前で撮った写真だね。初めて通販でカメラ買って嬉しかったころだと思う。

●スエイ お袋と撮った写真の後ろに見えるのが隣の家。この家の息子と最初の母親がダイナマイト心中したんだけど。

▲アキラ 事件直後は口もきいてもえらえなかった。

●スエイ そのうち「しょうがない」ってことになって。でも、のどかだよね。

▲アキラ いまは立派な道路ができて風景が変わっちゃったけど。

 

 
万博にて、父

●スエイ また親父か。

▲アキラ 写真撮られるのが好きだったんだよ。

●スエイ これは万博のときだから、大阪に集団就職したころかなぁ。一緒に行ったんだよね。

▲アキラ ネクタイなんかしちゃって。メガネも伊達メガネ。

●スエイ いつもモテたいと思っていたんだよ。お金があると、近所のオバちゃんにお金を配ったりしてたもん。

 


東京に出てきた頃

●スエイ これは東京に出てきたころの写真だね。

▲アキラ そうだね、なんだか貧しい感じだね。いつ頃だろう。平間の頃かなぁ。でも、住んでたのは3畳間だからこんなに広くないよね。前の奥さんと同棲してた祐天寺あたりかもしれない。

●スエイ ギターが恥ずかしいね。

▲アキラ あのころはギター持ってたんだよ、若者はみんな。「禁じられた遊び」とか「エリーゼのために」とか、そういうのを弾いてたんですよ。

 


M君と

●スエイ これは中学を卒業して1年ぐらい経ったころの写真。同窓会かなぁ。

▲アキラ 隣はM君。就職してたよね。

●スエイ 同級生の半分以上は就職してたよね。僕らも働きたいと思っていたんだけど。

▲アキラ 担任の先生に「高校に行ったほうがいい」とそそのかされて。

●スエイ どうせ工場で働くと思っていたんだから、中卒でもよかったんだけど。

 


難しい顔になり始めた頃

●スエイ これはまた、ずいぶん恐い顔をしてるねぇ。

▲アキラ どこだろう。ビルの屋上かなぁ。

●スエイ このころから難しいことを考えるようになったんだよね。

▲アキラ 本を読み出したからね。それまで本なんか1冊も読んだことなかったし。

●スエイ 表現者としての自覚が出てきたころ。

▲アキラ 自分は「表現者として生まれたんだ」と思うようになっちゃった。「人と違う家庭環境も、表現者になるために生まれたからだ」と思っちゃったんだよね。で、難しい顔になってくる。

●スエイ 髪の毛も伸びてくる。

▲アキラ ヒゲも伸びてくる。

 


キャバレーに勤め出した頃

●スエイ これも恐い。

▲アキラ これはもうキャバレーの頃だろうね。祐天寺に住んでた頃。

■マツダ タンスの引き出しが開けっぱなしになってますけど、これはやはり表現?

▲アキラ いや、これはたまたまだろうね。

 


前の奥さんの実家の新潟に行ったとき


雪が寒そうだ

●スエイ この写真では優しい顔になっている。

▲アキラ これは前の奥さんの実家の新潟に行ったときの写真だね。「表現者としての自覚」が薄らいでいるからかもしれない。

■マツダ 郷愁があっていい写真ですね。

▲アキラ でも、パンタロンが……。

 


キャバレーの同僚と千葉の小湊へ


釣った魚たち

■マツダ そして、これは釣りの写真ですね。

●スエイ これはキャバレーの同僚と千葉の小湊に釣りに行ったときの写真。……っていうだけの写真なんだけど、ニコニコしてるけど、このころが一番難しいことを考えてた時代じゃない。

▲アキラ このあとすぐキャバレーを辞めるんだけど。

●スエイ その下はこの日に釣った魚の写真。蟹も釣ったのかな。

 


何の写真かわかんない

●スエイ これなんだっけ?

▲アキラ わかんない。

 


キャバレー「クインビー」の慰安旅行
拡大↓


アキラ君

●スエイ すごい大スペクタクル写真。

▲アキラ 昔はこういう大広間があったんだよね。

●スエイ キャバレー「クインビー」のときの慰安旅行。熱海だったと思うけど。

▲アキラ 都内に10店舗ほどあったから、これで全員じゃないと思うけど。何組かに分けて旅行したのかね。

●スエイ 真ん中が根本正っていう社長。社訓が根本正から一字づつ取って「根性第一、本腰勤務、正道営業」、毎日朝礼で言わされてたよね。あれでまず嫌になっちゃった。

 


キャバレー「クラウン」の慰安旅行
拡大↓


フリーの看板描きになった頃

●スエイ 規模は小さいけど、キャバレーの慰安旅行は同じ感じがするね。

▲アキラ これは「クインビー」を辞めてしばらくしてフリーの看板描きになったころだから、23ぐらいのころかなぁ。

●スエイ 池袋と高田馬場にあった「クラウン」というキャバレー、というかピンサロみたいな店の看板を描いていた。マークも僕らが作ったんだよね。

▲アキラ 社長が岡山の人で、親切にしてくれた。岡山弁丸出しの人で。

■マツダ 随分、子連れがいますよね。

●スエイ そう。ホステスさんは子連れの人が多かったですよ。

■マツダ もうこのころは難しいことを考えてなかったんですか? 表現とか。

▲アキラ どうでもよくなっちゃったころ。金が稼げるようになったからね。看板1枚3千円で描いて、1日に2枚くらい描いてたから。そうなると、月20~30万になってたんじゃないかな。今で言う100万くらいですよ。そうなると、「表現が……」とか考えている暇なんてない(笑)。その日のうちに看板描かなくちゃいけないから。だから、下のチラシも表現はいっさいないね。


当時、アキラ君が作ったチラシ


1970年11月25日、上野でやったストリーキング

●スエイ これは時代が前後するけど、「クインビー」にいたころ。上野でやったストリーキングの写真。

▲アキラ 三島由紀夫が自決した日だから、1970年11月25日。

■マツダ どうやってやったんですか?

●スエイ まず上野の駅前のガード下で服を脱ぎ、首から数珠をぶら下げて、走り回る。

▲アキラ シャッターによじ登ったり、ゴミ箱にダイビングしたり。

●スエイ それを友達のカメラマンが追っかけて写真を撮る。あのときの写真はなくなってしまったけど、こうして1枚残っているから、やはり写真撮ってもらってよかった。

▲アキラ 朝帰りのホステスさんとかが「カッコいいわよ」と声をかけてくれたりして。

■マツダ 気持ちよさそうですね。

●スエイ 気持ちいいよ(笑)。御徒町の松坂屋まで走って、そのあたりに用意していた看板で使うネオカラーという水性ペンキの赤を頭から被って、道路を転げ回った。写真がカラーだったらよかったんだけど。守衛がビックリしていたけどね。

■マツダ 気になるのは、ストリーキングの後、家に帰るときなんですけど。

▲アキラ ああ、帰るとき? 帰りはコートだけを羽織ってタクシーで。写真を撮ってくれたカメラマンの家まで行って、シャワーを浴びさせてもらって帰ったよ。



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