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『パチンコ必勝ガイド』(白夜書房)

 この原稿は、松田義人君に頼まれて『パチンコ必勝ガイド』で夏の間書いたものです。
 池で溺れたことや、臨海学校やキャンプに行ったことや、「夏の思い出」はまだまだいっぱいあることをあとになって思い出しました。
(スエイ)
 
夏の思い出

[回り灯籠]

 夏が来れば思い出すことは、回り灯籠ですね。子供のころ、梅雨どきに生梅を100個ほどガリガリ食べて、エキリになったんです。

 エキリというのは法定伝染病で、本当は隔離しないといけない病気なんだけど、家が山奥だったから隔離の施設も病院もなくて、自宅で寝てるしかなかったわけです。といっても、5分おきに便所に行きたくなるから、寝ているわけにもいかず、這うようにして便所とフトンを往復していました。

 そのとき、枕元の上にぶら下がっていたのが回り回り灯籠で、自分で作ったのか、何かの雑誌の付録だったのか、誰かが買って来たのか忘れましたが、あの影がグルグル回るもの悲しい感じをよく覚えています。よく「走馬灯のよう」とか言いますが、それはたいてい、死ぬときに過去の思い出が脳裏をよぎったりするときに使う言葉ですね。僕もそのとき、「死ぬかもしれない」とボンヤリ思っていたような気がします。

 僕が助かったのは、ペニシリンのおかげです。そのころ、ペニシリンは高くて、町から来た医者が「これを打ったら助かるけど、打ちますか?」とオヤジに聞いたら、「ちょっと待ってくれ」と言って、しばらく考え込んだそうです。貧乏でお金がなかったから仕方がないんですが、自分の子供が死にそうなときに「ちょっと待ってくれ」はないだろうと、あとになって思いました。オヤジはいつも恩着せがましく「ワシがお前の命を救ったんじゃ」とよく言っていましたが、感謝の気持ちがなかなか持てません。

 夏になると、なんだかもの悲しい気持ちになるのは、たぶんこのときの記憶が残っているからだと思います。

 
夏の思い出

[7月7日]

 パチプロの田山幸憲さんが亡くなったのは、2001年の7月4日でした。

 5日の朝、田山さんのお母さんから「幸憲が昨日亡くなりました」という電話があって、そのときのお母さんのシッカリした声をいまも覚えています。

 田山さんが最後まで打っていた台が権利物のナナシーで、語呂合わせみたいだけど7月4日、ナナシーの日に亡くなったのは不思議だと思いました。そしてお葬式が7月7日、わざとこの日にしたわけではなく、必然的にこうなったわけですが、これも不思議だと思いました。パチプロのお葬式が7月7日って、カッコいいじゃないですか。

 僕は田山さんという人格に出合わなかったら、『パチンコ必勝ガイド』を続けられなかったかも知れないと思うことがあります。雑誌は売れれば続けることはできるのですが、僕が言うのは精神的なことで、僕の中では田山さんが精神的支えになっていたと思います。

 1988 年の、やはり夏でした。『パチンコ必勝ガイド』創刊号のために、田山さんにパチプロになる方法をインタビューしに行ったのですが、そのとき「パチプロなんかになるもんじゃない。社会に何も貢献してないじゃないか」と言われたときは唖然としました。まさか、そんなストレートな言葉を聞くとは夢にも思いませんでした。僕より年上なのに、なんかまったく世にスレていない人だと思いました。それから13年間の付き合いでしたが、田山さんに教えられたことはいっぱいあります。

 あれほど正直で、あれほど知性と美学があって、あれほどわがままに、あれほど遊び人だった人を、僕はほかに知りません。

 
夏の思い出

[西日]

 
 夏になると思い出すもの。回り灯籠と田山幸憲さん、あとなんだろう、西日かなぁ。

 夏の西日はものすごく暑いということは、みなさんご存じですよね。エアコンがあればいいんですが、それでも壁に手を当てると太陽の熱が伝わってくるのが分かります。

 エアコンなんか買うお金のないころ、僕は西日の差す6畳のアパートの2階の部屋で、汗まみれになりながら悶々としていた時期があります。22、3歳のころです。

 なんで引きこもりをしていたかと言うと、失業していたからです。本当は職探しに出ないといけなかったのですが、僕はもう何もやる気がしなくなっていました。

 なんでそんなにナマケモノになっていたかと言うと、希望を失っていたからです。

 その前は、キャバレーの宣伝課でチラシのデザインなんかをしていました。キャバレーに入った理由は、自由に自分の表現ができると思ったからですが、その考えはものすごく甘かったということを、入って半年ぐらいで知りました。

 自由なデザインの場なんかどこにもなかった。そのことを知った僕は、その先、何をしていいのか分からなくなっていました。

 生活費は、妻(そのころは同棲中でしたが)が稼いでいました。部屋でゴロゴロしている僕を怒るわけでもなく、アパートの1階にあった双眼鏡を作る工場に毎日行っていました。

 窓の外からコツコツっという音が聞こえてくるので、窓を少し開けてみると、妻が双眼鏡のケースを隣の家の物干台に干していました。隣は大家の家で、大家が工場主です。

 妻が1人でケースを干しているのを見て、涙が止まらなかったことを覚えています。


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