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『新潮45』(新潮社)

 この原稿は、中瀬ゆかり編集長の『新潮45』に書いたものです。
 中瀬さんを初めてお見かけしたのは、六本木のイタリアン・レストランでした。ギャハハと豪快に笑って福田和也氏をボカボカ叩いていました。すごい人だなぁと思いました。
 その後、麻雀で何回かご一緒させてもらったことがありますが、まぁうるさいのなんの。中瀬さんとやってると、全然麻雀に集中できません。
 その中瀬さんが『新潮45』の編集長になられて、初めて中瀬さんから原稿を頼まれることになりました。原稿依頼のていねいな手紙や、原稿を少し書き直して欲しいというときの相手を傷つけない言い方など、勉強させられました。さすが編集長に抜てきされるだけの人なんだなぁと、初めて編集者として尊敬した次第です。
 最初の原稿は、『人生で「地獄」を見た時』という特集のとき頼まれたもの。津川雅彦、岸部四郎、荻野目慶子、江夏豊、丹波哲郎、生方惠一、石川ひとみ、島田裕巳、中島らも……といったそうそうたる面々の中に入れてもらいました。みんな地獄を見たんですね。
 次の原稿は、「イエスの方舟」のおっちゃんこと、千石剛賢さんが亡くなられたとき。千石さんとは親しくさせてもらっていたので、おそらくどこからか原稿依頼かインタビューの申し込みが来るんじゃないかと思っていたら、中瀬さんからでした。
 この原稿が載った『新潮45』が出てしばらくして、「イエスの方舟」から電話がありました。「イエスの方舟」には無許可で書いた原稿だったので、怒られるんじゃないかとビクビクしていましたが、「おっちゃんの人格がよく書けています」と誉められ、『新潮45』を50冊も買ってくれました。
(スエイ)

『新潮45』(新潮社)

「先物取引」で知った臨死体験

 一九八七年の八月頃だったと思う。

 黒いスーツに黒いカバンの営業マンが、突然私の仕事場に来て、「あのぉ、社長さん、金(きん)はご存じですか」と言う。地獄の使者とも知らず、私はこの男と口をきいてしまった。

「私は社長じゃないですけど、金は知っていますよ。ピカピカ光るやつでしょう」

「その金で大儲けしてみませんか」

「大儲けったって、お金は余ってますよ」

 と言うと、その営業マンはキョトンとした顔になったが、全然ひるまない。「じゃあ、もっと儲けましょう」と大きな声で言うので、私はちょっと恥ずかしくなった。

 私はその営業マンをからかう気持だったのだが、「大儲け」ということに反応してしまったのかも知れない。そういう気持を営業マンは見逃さなかったようだ。二、三日して、その営業マンから「先日は失礼しました。編集長さん、いまがチャンスですよ。この分だとおそらく二、三百円は上がりますよ。三百万ほどで、六、七百万は儲かります。いまからそちらに伺います」と、興奮した口調の電話がかかってきた。お金に困っていたわけでもないのに、六、七百万という具体的な数字を示されると、思わず心が動いてしまった。

 商品先物取り引きというのは、架空の商品取り引きで、実際にはお金は動かない。その頃、金一グラムが二千二百円前後だった。これが二百円上がれば、十キロで二百万の儲けとなる。金を十キロ買うには、委託証拠金が百三十五万円必要になるのだが、これは値下がりしたときの補填用である。もし預けた百三十五万円の半分まで値下がりしたら、また百三十五万円追加しないといけない。これを追加証拠金、略して追証と言う。

 私は百三十五万円で、金十キロを買ったのだが、その日からなんとなく毎日が落ち着かなくなってきた。商品の値段は刻一刻と上がったり下がったりしている。東京が終れば香港、次はロンドン、そしてシカゴと、二十四時間市場は開いていて、いま頃シカゴで金がドーンと値下がりしているのではないかと考えると、眠れなくなったりすることもあった。

 毎朝、駅の売店で日経新聞を買い、喫茶店に入り昨日の値動きを見るのが日課になった。昨日の終り値が上がっていて、「金強含み」なんて記事が出ていると、その日は元気になり、値下がり傾向にあると気分も落ち込み、不安になってくる。その日の気分が金の値段で左右されるのだ。先物地獄の始まりである。

 当時、イラン・イラク戦争が続いていた。戦争などの世情不安は貴金属が値上がりする要因で、戦争が激化すれば貴金属は高騰しますよと営業マンは言っていた。また、当時は急激な円高になっていた。金は輸入品だから、それ自体はマイナス材料だが、ドル安でアメリカの貿易赤字が膨らんでドルの信用がなくなるから、ドル安を食い止めるため、レーガンは金本位制を復活させるのではないかと言う。その記事の切り抜きを見せて「金は暴騰しますよぉ、もう少し買っておきますか。家が三軒ぐらい建ちますよぉ」と営業マンは言うのだった。

 その頃はバブル経済のときで、私の自宅の評価額がどんどん上がっていた。自宅のローンを組んでいる銀行の人がきて、「これで株でもやったらどうですか」と言って、自宅を担保に不動産担保ローンを作ってくれた。カード一枚で一千万円まで借りられるのである。どうせ儲けるチャンスならドーンと儲けようと、そのお金で金をどんどん買った。「白金のほうが上がるスピードが早いですよ」と言われ、金を決済して白金に乗り換えたり、「儲かったら税務署がくるかもしれませんから、名義を奥さんにしてもっと買っておきましょう」と言うのでまた追加で買ったりで、一カ月後には、総額一千万円ほどのお金を先物につぎ込んでいた。

 しかし、頼みのイラン・イラク戦争が終結に向かいだした。私は常々自分のことを戦争反対の平和主義者だと思っていたが、このときばかりは戦争が終ると困ると思った。もうちょっと続けてくれと、戦争を祈るような気持になっていた。

 いま考えれば当然のことだが、アメリカの金本位制も一向に実行されなくて、値上がりの材料のない貴金属は、やや下がり気味になっていたが、二カ月後についにチャンスがやってきた。一九八七年十月十九日の月曜日、ニューヨーク株式市場を襲った大暴落、例のブラックマンデーである。株の急落は、それまでのデータでは貴金属の急騰につながっていた。株はダメだと思った投機家が、先物に乗り換えると言う。営業マンは興奮して、「ひょっとしたら一億ほど儲かりますよ」とか言う。

 私は、もう一億儲かったような気分になってしまって、そのことを友達に言いたくて仕方がなかった。その夜、友達を誘って、いつも行く高田馬場のバーに飲みに行った。

 私の話を聞いて、みんなは「よかった、よかった、みんなでバーッと行きましょう」と、まるで自分のことのように喜んで、私のオゴリでどんどん飲んだ。ママが「末井さーん、カウンター古くなったから替えてぇ」とか言う。酔っ払った勢いもあって、「まぁかせなさぁい、カウンターも内装も、みーんな替えたげますよぉ」と、ものすごくハブリのいい嫌な奴になっていた。私が先物でハイになったのはこの日だけである。

 確かに次の日、貴金属は少し上がったが、その次の日、過去のデータを裏切り急落しだした。おいおいおい、それは話が違うぞと思ったが、ついに金も白金もストップ安になり、それが次の日も続いた。投機家が株の損金を埋めるため、先物に投資していたお金を回収しだしたと言うのだ。つまり、みんな両方やっていたのだ。

 先物屋から再三電話がかかってきて、急いで追証を入れてくれと言う。「いまどのくらい損してんですか」と聞くと、「そうですね、六百万ぐらいですか」と事務的に言う。「六百万」と聞いたとき、心臓がキュッと締めつけられ息苦しくなった。それから全身の力が抜けてヘナヘナヘナとなったあと、魂がスーッと抜けていくような気分になった。私はまだ臨死体験をしたことがないが、ひょっとしたらこのときの気分のようなものではないかと思う。

 とにかく、仕事がまったく手につかず、人から話しかけられても口がパクパクするだけで話にならない。これじゃあヘンに思われると思って、会社を出て高田馬場をウロウロ歩き回った。歩いているうちに、会社の人にバッタリ会ったら困ると思って、新宿に向かった。とにかく、知ってる人とは誰とも会いたくなかった。

 新宿をウロウロ歩きながら、自分はまったく違う世界にいるような気分になった。誰も頼れない、自分一人だけの孤独な世界だ。

 いまやめれば四百万のお金は残る、しかし六百万の借金が残る、ここは頑張って追証を入れて金や白金が反発するのを待つしかないが、問題はお金である。すでに銀行の不動産担保ローンは目一杯借りていたので、もう借りることはできなかった。

 新宿を歩いていると、サラ金の看板がやたら目につく。普段は気にしていなかったが、いざお金が必要と思うと、街中サラ金だらけであることにいまさらのように気がつく。

 質屋は昔何回も行ったことがあるが、サラ金に行ったのはこのときが始めてである。ほんの数カ月前は、お金のことは考えない平和な暮らしをしていたのに、気がついたら借金地獄になりそうになっている。

 サラ金に相談すると、健康保険証があれば五十万円までは貸してくれると言う。しかし、五十万では足りないので、別のサラ金に行った。今度はちょっと人相のよくない男が三、四人いる歌舞伎町のサラ金だったが、不動産の担保があればいくらでも貸すというので、次の日に妻に内緒で自宅の権利証を持ち出して三百万円借りに行った。

 追証を入れてなんとか決済を免れたのだが、そのあともどんどん値下がりして、もう追証のお金がなくなって決済することになった。手元に残ったお金は、わずか十三万だったと思う。

 ギャンブルは、勝っても負けてもハマるものである。勝ったらもっと大きく勝とうと思い、負けたらそれを取り返そうと、さらに大きく賭けることになる。

 その後、懲りずに十年近くも先物取り引きを続けたのだが、結果だけ言えば、合計で四千万円ほど負けた。先物だけでなく、その間、パチンコ、競馬、麻雀、カジノ、チンチロリンと、ギャンブルにハマリまくるのである。

 ギャンブル漬けで、この川を渡ればもう戻ってこられなくなるというところでフラフラしていた私を救ってくれたのは、いまの妻、神蔵美子である。「そんなことしてないで、私と暮らして、女装したり、映画や展覧会を観に行ったりした方が楽しいよ」と言ってくれて、私はその川岸から戻ってくることができた。地獄から生還した感じである。ああよかった--。(2000年8月号)


『新潮45』(新潮社)

千石のおっちゃんはイエス・キリストだった

八〇年に世間を騒がせた「イエスの方舟事件」から二〇年が過ぎ、
昨年十二月、「千石イエス」はこの世を去った--。

「イエスを生活する」

 「千石イエス」という名前を知ったのは、一九八〇年に入ってマスコミが騒ぎ出した「イエスの方舟事件」でだった。イエスの方舟に娘をさらわれたと思った母親が、「千石イエスよ、わが娘を返せ」という手記を『婦人公論』に書いたのが事件の発端だったと記憶している。

 マスコミに取り上げられた「千石イエス」のイメージは、トタンで囲んだプレハブに住み、チョビ髭を生やし黒い服を着て牧師を装い、刃物研ぎで各家庭を回って言葉巧みに女性を勧誘し、プレハブに連れてきて共同生活させるというもので、いかにも怪しい新興宗教の教祖という感じに仕立て上げられていた。週刊誌には「狂信的な邪教集団」「集団催眠で洗脳」「キャバレーで働かされていた娘たち」といったスキャンダラスな見出しが踊っていた。三億円強奪事件の犯人ではないかという記事まで出たことがある。

 私もまた、そういうマスコミが作り出した「千石イエス」像をそのまま鵜のみにし、若くてきれいな女性たちに囲まれて(おそらく楽しく)暮している「千石イエス」を、「ハーレムじゃねぇか」とうらやましがっていた。

 マスコミや親たちの追跡を逃れ、各地を転々としていた「千石イエス」とイエスの方舟の人たちは(身を隠していたから、よけい怪しい感じがした)、一九八〇年七月、『サンデー毎日』のスクープで世に姿を現わす。そして、『サンデー毎日』に載ったイエスの方舟の人たちの発言で、「千石イエス」に対する誤解が解かれることになるのだが、この事件で、千石さんとイエスの方舟の人たちが受けたショックはあまりにも大きく(前述のように、千石さんをいかがわしく思った私は、加害者の一人と言えるかもしれない)、以後イエスの方舟の人たちは、マスコミに対してすごくナーバスになってしまう。

 それから六年して、私の中で「イエスの方舟事件」の記憶も薄らいだころ、何気なく書店で見つけ、そのタイトルで買ってしまった千石剛賢著『父とは誰か、母とは誰か』(春秋社・一九八六年)を読んで、ぶったまげてしまった。それは、まさに、常識が根底からくつがえされるような本だったのだ。

 断わっておくが、私は本を読むのがすごく苦手で、いつも途中で挫折してしまい、最後まで読んだ本はこれまでほんの数十冊ぐらいしかない。しかし、今後何百冊本を読もうが、これほどに感銘を与えてくれる本には、絶対巡り会わないだろうと思っている。

 この本は、芹沢俊介さんが千石さんをインタビューしてまとめた本で、前半が千石さんの生い立ち、真ん中に千石さんとイエスの方舟の人たちの座談会、集会の記録、後半が千石さんの聖書の解釈となっている。

 それまで聖書を読んだことは、ただの一度もなかった。ホテルの机の中に置いてある聖書を、パラパラとめくって見たことがあるが、何を書いているのかさっぱり解らなかった。「キリスト教の教典でしょう」ぐらいにしか、聖書をとらえていなかったのである。

 ところが、千石さんはこの本の中で、聖書は人間を最大の不幸である死から救うハウツー書だと言っている。人間は誰しも死ぬものと思っていたから、それを読んでぶったまげてしまったのだ。

 確かに、いくら財産を手に入れようが、いくら名声を得ようが、いくら好きな人と暮していようが、最後は淋しく死んで行くという事実だけがあるとしたら、人間には幸せはないということになる。もし、幸せを感じたとしても、それは一時的なもので、すぐに虚無に支配されてしまうはずである。

 しかし、その死から逃れられる方法が一つだけあったのだ。以下は、『父とは誰か、母とは誰か』からの受け売りである。

 なぜ死があるのか。「神其像の如くに人を創造り給へり」(創世記1-27)とあるように、もともと人間には死がなかった。ではどうして人間に「死の法則」が働くようになったかというと、「善悪を知るの樹は汝その果を食ふべからず汝之を食ふ日には必ず死ぬべければなり」(創世記2-17)と神が言ったことを守らず、エバがその実を食べてしまったことによる。そして、物質を司る悪魔に支配されてしまった。つまり、原罪が生まれたということである。

 原罪が人間にある以上、「死の法則」から逃れることはできない。絶望しかないのである。ところが、主イエスが現われたのだ。イエスは唯一原罪のない人格(キリスト、つまり神の人格化)で、イエスだけが人間を救うことができるのである。


 と書いていると、どうも宗教っぽくなってしまうのだが、千石さんは宗教観念を、一番やっかいなものとして否定している。キリスト教のことは勉強不足でよく解らないが、おそらくイエスを神と崇め、イエスにすがることで救いを得ようとするのだろうが、それでは垢のように人間にこびりついている原罪を捨て去ることはできない。

 千石さんがキリスト教の考え方と決定的に違うところは、イエスを崇めるのではなく、自分がイエスになるというところだ。それはイエスを生活するということで、そうすればキリストとの合体が起き、「死の法則」から逃れられるというのだ。そして、それは修行も我慢も努力も必要ない。聖書に書かれていることをそのまま実践すれば、誰でもイエスに近づける。それを実践しているのが、イエスの方舟ということである。

 私はこれまで、千石さんのことを「千石イエス」と書いてきたが、これはもちろんマスコミが勝手につけた名前で、千石さんはそう呼ばれることをすごく嫌っていた。ちょっと長くなるが、『父とは誰か、母とは誰か』からその箇所を引用してみよう。

 千石イエスというのは、私自身がいちばん嫌うことやからね。千石がイエスであるわけがない。そんなバカバカしいことはない。聖書的な意味で、千石某が死なんことには、キリストは獲得できない。もちろん、イエスを生活できない。私たちがイエスを信じるというのは、かりに田中三郎という人がいて、その人がイエスさまを信じるという、こういうもんじゃなくて、田中三郎という者が、キリストの考えを生活していく上において、どんどん死んじまうことだ。これを聖書では「外なる人が壊れる」と、こう言われているんです。修行や努力じゃなくて、キリストの考えを自分の存在において、また生活の場で行為していく。そこで〈古き人〉はどんどん死ぬ。外なる人はつまりやぶれる。すると「私たちの外側の人は朽ちていきますが、私たちの内側の自分は、日に日に新しくされていくのです」(コリント後4-16)。イエスそのものが生活できはじめる。

 釈迦は生活できない、孔子も生活できない、マホメットも生活できないが、イエスは奇妙なことに生活できる。イエスを生活するとなると、その生活の中身はキリストでなきゃならんことになる。そこにキリストとの合体が起きる。その人格は、もちろんイエスになる。イエスになれば〈古き人〉が死ぬ。〈古き人〉が死ぬということになれば、これは罪は消えざるをえない。なぜならば、罪というものは〈古き人〉にしか作用してないんだから。そうすると、「死にし者は、罪より義とせられたればなり」(ロマ6-7)と。キリストとの出会いということは、いうならば〈古き人〉が死ぬ、つまり自分が死んじゃうことだ。だから、生きようとおもってキリストに近づくと、実は反対に死んじゃうんです。それが〈十字架の死〉なんです。要するに、生きようおもうてキリストに近づくんですけど、でもほんとうに近づいていくと、死んじゃう。

 やっぱり死ぬのはいやで、どうしても死にたくないと頑張れば、聖書に言われていますように「己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ」(マタイ 16-25)と、こないになっちゃうんです。生と死という相対的生命の存在次元から一歩も出られないということです。死ぬのがいやだと気張ったらですよ。もちろん死ぬのはいやだといっても、この死は、存在的な意味での死であって、生理的な、心臓が止まるとか脳波が止まるとか、そういう意味じゃないんです。この死によって人間の中身が変わっちゃうことです。

 私は常識というものを、いつも疑っていたように思う。常識というものは人間を苦しくはするが、決して楽しくするものではないと、薄々感じていたのかもしれない。常識外れの人に興味があったのは、そういう人は私の中の常識をぶち壊してくれるからだ。幸いにも雑誌の編集という仕事をしていたので、多くの常識外れの人と会うことができたが、千石さんほど常識から遠い人はいないように思った。というより、千石さんは、世界を根底からひっくり返してしまう人だと思った。

イエスと性欲

 千石さんに会いに博多に行ったのは、翌一九八七年の春ごろだったと思う。私が編集していた『MABO』という女の子向け雑誌のインタビューで、千石さんを訪ねたのだった。千石さんに会いたいとずっと思っていたものの、私は気が弱いので、何か目的がないと会いに行けなかった。『MABO』はそのために作った雑誌だったかもしれない。

 博多の歓楽街、中洲のど真ん中にある「シオンの娘」(イエスの方舟の女性たちが運営しているクラブ)の二階に案内され、少々緊張して待っていると、黒い詰め襟の服を着た千石さんが、ニコニコしながら現れた。

 最初に千石さんに聞いたことは、イエスと性欲についてだったと思う。

 イエスに性欲はあったのか、あったのならなぜ聖書に書かれていないのか。あるいは、なかったのならそれはなぜなのか。こういう質問は、キリスト教ではタブーとされているそうだが、それだと「ごまかしているんじゃねぇか」ということになる。私は宗教に対して猜疑心が強い。

 しかし、千石さんは『父とは誰か、母とは誰か』で、しっかりそのことに触れていた。

 イエスに対する「荒野の試み」には、たいがいの人間の悩み、とくに男にとっての女性についての悩み、性の悩みそれがまったく登場しない。実際はあったんだけれども、それは神の子イエスにおいては、調子が悪いのでカットすると、そないなことは聖書はされないんです。

 だいいち、これは、内部の集会のときにはよく言うことなんですけれども、セックスそれ自体は善いものでも悪いものでもありはしない。むろん、穢らわしいものでも、また尊いものでもありゃあしねえ。そんなものは、単なる生理にすぎん。ただ、その人の感覚によってはとんでもないことになっちゃう。その人の感覚しだいでは、セックスそのものは、その人を破滅に落とし込むたいへん危険なものをもっている、と。

 だから、イエスに〈性〉についての悩みがあれば、当然それは触れられます。ところが、まるっきりそれがされてないというのは、イエスには、ズバリ言いますと性欲についての悩みはまるっきりなかったことになる。その理由は、最前から触れようふれようとしゃべっていることなんですけども、イエスには〈原罪〉がなかったからだと。〈原罪〉がない人間というのは、どないなるのか。〈原罪〉がない人間というものには、他人がなくなっちゃうんです。〈原罪〉ということにおいて、他人が生ずるんです。だから、イエスには他人がないんです。


 性欲に関しては誰もが興味を持つことだし、イエスに性欲があったかどうかということは、誰も明確にしていなかったので、その箇所は私の中で強く印象に残っていた。

 イエスと性欲についてしつこく聞く私に、千石さんはこうも話してくれた。

「仮に何かに熱中している場合、健康だといっても性欲は起きないんです。たとえば、そうですな、たとえが適当ではないのですが、野球がこうクライマックスになっているときに、どんなに健康な男の人でも、性欲のことは何も考えておられんのじゃないですか。満塁でこの一球で勝負みたいになっているときに、女が股広げようとどうしようとね、起きないはずなんですよ、性欲は。人間の精神状態があるところまで高揚した場合、そういうことは起こりうるはずです。そうすると、あのイエスというのは、始終間断なく、いつの場合でも、精神がおっそろしい高揚をかち得ていたんです。だから、女を見て色情をいだいたことはない。あったら聖書はみんな嘘になってしまう。イエスが偽善者になってしまいますからね。ですから、性欲の問題いうのは、イエスの人格に近づこうとしたときに、その謎がとけてくると思うんです」


 千石さんはどんな質問にも真剣に答えてくれて、一切のごまかしがなかった。それは、イエスを信じ、命がけでイエスを生活をしていたから、すべてのことが実感として解っていたのだと思う。

 人の欺瞞に対して厳しかったが、どんなことでも受け入れてくれる優しさがあった。

 そのころ私は、複数の愛人がいて、罪悪感に苦しんでいたときだった。「男は同時に何人もの女を愛せるんですか」と千石さんに聞いたら、答えは「そうですな。三十人が限界でっしゃろ」だった。その言葉を聞いて、精神的にすごく楽になったのを覚えている。

 そのころ、千石さんは身の上相談の仕事をしていて、暴力をふるう子供がいる家から電話があると、オートバイで緊急出動していると言っていた。子供が金属バットを振り回し暴れだしたら、千石さんに電話が入るのである。千石さんは駆けつけてその子供と話をする。すると、子供の気持が静まるのだそうだ。間違ってバットが頭に当ったらと考えると、身の上相談といっても命がけだと思った。

 その話をしていたとき、千石さんはちょっと不思議なことを言った。

人と話すとき、相手の霊を見ながら話さなきゃいけません。大学の先生なんかは、霊があまり見えません。子供の方が見えるんです
 聖書に書かれていることは、つまりは霊の世界のことだ。と、千石さんに会ってから思うようになった。肉体(物質)がすべてだと思っていると、聖書に書かれていることはとんでもない、理解し難い話になる。当然迫害も起きるだろう。だから、比喩を多用して、すぐには解らないようにしているのだろうか(千石さんは、聖書は暗号みたいなものだと言っていた)。

 千石さんに会った夜、「シオンの娘」に寄った。一時間おきに、歌謡ショー、剣舞、フラメンコ、ピアノ演奏のショーがある、一風変ったクラブだった。どう表現したらいいのか分らないが、「幻想としてのクラブ」みたいなところだった。ステージを囲んで、大きな馬蹄形のカウンターがあり、お客さんは外側、接客の女の人たちは内側に座るようになっていた。

 私は二十代の前半、キャバレーに勤めていたことがあって、水商売を裏から見ているので、女性がいる店に行くと緊張してしまうのだが、「シオンの娘」はリラックスできて、すごく居心地がよかった。女の人たちは、みなさんフワフワっとした感じで、殺気だったところが全然なかった。商売っぽいところがまったくないのだ。

「ヤクザはこないんですか」と聞くと、「たまにこられますけど、何か感じが違うらしくて、すぐ帰られます」と一人の人が言っていた。

「シオンの娘」では毎週日曜日、一般の人も参加できる集会が行われていて、これにも参加させてもらった。白い布がかけられた机がステージに置かれ、そこで千石さんの話が始まる。心臓が悪いので、ときどきニトログリセリンを飲みながら、

青酸カリなんて、あんなもの、くそうて飲めませんで

 とかドキッとするような話が飛び出す。千石さんは、何回か自殺未遂をしたことがあったようだ(若いころ、友だちと死のうということになって、しかし自殺する勇気がないから、大きな鯨切り包丁を体にゆわえつけて、阪急の人ごみを走り回ろうと、そうしたら警官が射殺してくれるんじゃないかと、深刻に考えていたそうだ。その話を『父とは誰か、母とは誰か』で読んだときは思わず笑ってしまった。千石さんの話は、深刻なことでもどこか陽気である)。そういう体験談を折り混ぜながら、話はどんどん脱線していく。しかし、最後はキッチリ聖書の話になる。見事だった。その話が面白くて、私はそれを本にできないかと考えていた。

 それが実現したのは一九九二年だった。イエスの方舟のみなさんに協力してもらって作った、『隠されていた聖書 なるまえにあったもの』(太田出版)がそれである。

 この本ができたとき、「聖書はもう解った」というような気になっていた。解った気になるということは、頭の中の整理箱に入れてしまって、鍵をかけてしまうということだ。だから、それまで頻繁に行っていた集会にも、全然行かなくなってしまった。

自分は死なないんだ

 再び博多に行くようになったのは、いまの妻と暮すようになってからだ。いまの妻ということは、当然前の妻がいたわけだが、私がいまの妻を好きになって、一方的に家を飛び出した。いまの妻もその当時は結婚していて、私たちは俗にいうダブル不倫だった。

 好きな者同士、一緒に暮せば楽しいだろうと思っていたのに、一緒に住んでみると喧嘩が絶えなかった。『神の合せ給いし者』になるはずだったのに、なんでこんなにイライラするのか解らなかった。

『隠されていた聖書 なるまえにあったもの』を繰り返し読むようになったのはそれからだ。繰り返し読むと、いままで解らなかったことが解ってくる。言葉が心に響いてくる。そして、気持が楽になる。千石さんは、聖書を読むと精霊の導きがあると言っていたが、私にとってこの本が聖書だった。

「情は悪魔が人間をがんじがらめにする恐ろしい罠」「男は女を愛することによって男が願う真実のしあわせが出現する」「女が男を愛するということは絶対できない
といった言葉が、実感となって伝わってきた。博多に再び行くようになったのは、それからである。

 千石さんは、決して体の調子がいいわけではなかった。私は全然知らなかったが、一昨年肺水腫で危篤状態になったこともあったそうだ。しかし、集会のときにそういう様子は微塵もなかった。千石さんの笑顔を見るのが、いつも楽しみだった。

 昨年の十二月十一日、千石さんが亡くなった。もっといろんなことを聞いておけばよかったと悔やんでいるが、不思議と悲しい気持にならなかった。人の死に対して悲しい気持になるということは、死んでいったその人の無念さを思うからだが、千石さんにはそれはなかったはずだ。

有限の生命というたらこのことば、おかしいんですよね。いのちというたら本来無限のものなんですから。罪のため有限化されてしまった状態が、もとの無限の状態に変わること。つまり死なないってことですね。死なないのが本当なんですよね。イエスの生活を真似してると、この肉体を持っている間に無限生命を自分の実感として受けとらされてくることになるんです。自分は死なないんだということが本当に得心がいくようになる。 (『隠されていた聖書 なるまえにあったもの』より) (2002年3月号)


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