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『MEMO』(ワールドフォトプレス)

 これは『MEMO』という雑誌で、2002年1月号から2004年の1月号まで、足掛け2年間連載していた「昨日までの風景。」という連載で、写真は神蔵美子が撮っています。
 この連載を額田さんから頼まれたとき、1枚の写真とそれにまつわる小さな物語みたいなことを考えていたのですが、そんな器用なことは出来るわけもなく、例によって日記みたいな文章になってしまいました。でも、最初のころはちょっと気取って書いていて、いま読み返すと恥ずかしくなります。
 毎回写真がついていたのですが、7回目と8回目と13回目の掲載誌がなくなってしまい、写真を入れることができませんでした。それから、写真は印刷物をスキャニングしているので、見づらくてすみません。
(スエイ)


連載・第1~6回
連載・第7~13回


1 僕の部屋に貼ってある田山さんの三枚の写真

 僕の部屋には、(神蔵)美子ちゃんが撮った田山幸憲さんの写真が三枚貼ってある。

 一枚は、昨年舌ガンが再発して東京大学付属病院の分院に入院したとき、美子ちゃんとお見舞に行ったときのもの。紫陽花がしおれていたから、梅雨の終りのころだ。病院の喫煙室で、田山さんと僕が笑いながら何か話している写真だ。

 田山さんは四年前に舌ガンになったが、同じ東京大学付属病院で完治していたから、今回も治るものだと僕は思っていた。田山さんは、入院で中断していた「パチプロ日記」のことを気にしていて、分院から本院に移ったら週末パチンコができるから、「パチプロ日記」を再開するつもりだと言っていた。「あれを書いてないと調子が悪いんだよ」と田山さんが言うのを聞いて、僕は十二年前に初めて田山さんに会ったときのことを思い出していた。

 ふとしたきっかけでパチンコに夢中になって、パチンコ雑誌を創刊することになったものの、パチンコのことは何一つ知らなかった。人から『パチプロ告白記』という本を書いた東大中退のパチプロがいると聞いたので、さっそくインタビューしに行くことにした。パチプロというからには、さぞかし我の強い押しの強い人だろうと想像していたが、田山さんはまったく正反対の人だった。

「パチプロなんかになるもんじゃないよ」田山さんはいきなりそう言った。気負ってそう言ったわけではなく、本当にそう思っているようだった。その言葉には、パチンコしかできない人がいるという意味も含まれていた。そういう、いわゆる落ちこぼれの人たちに、田山さんはすごく優しかった。そういう人たちと酒を飲むのが、本当に楽しそうだった。

 その田山さんの言葉で、僕は誰に向けて雑誌を作ればいいのか、おぼろげながら分かったような気がした。そして、僕も田山さんの仲間に入れてもらいたかった。「パチプロ日記」の連載を田山さんにお願いしたのは、そういう気持ちがあったからだが、田山さんは最初嫌がっていて、僕のことを悪徳商人と呼んでいた。それでも、僕の強引な依頼で、田山さんは「パチプロ日記」を書き続け、それは十ニ年も続いていた。

 田山さんの「パチプロ日記」で励まされた人は多い。パチンコをやる人はどこか孤独なところのある人が多いのだが、だからこそ田山さんと通じ合ったのだろう。編集部に届いた田山さん宛のお便りを渡すと、田山さんはていねいにそれを読んでいた。田山さんも逆にみんなに励まされていたのだろう。「あれを書いてないと調子が悪いんだよ」と言ったのは、そういう意味だと思った。

 もう一枚の写真は、用賀のスナックの前で撮った写真。田山さんは優しい顔で微笑んでいる。

 美子ちゃんと喧嘩をしたり気まずい雰囲気になったりしたとき、よく二人で田山さんに会いに行っていた。田山さんは敏感だから、僕たちがうまくいってないことは分かっていたはずだが、そんなことはまったく口にせず、一緒にお酒を飲んでくれた。田山さんと話していると、イライラしていた気持も静まり、そのあとは僕らは自然と仲良くなっていた。いまでも美子ちゃんと気まずい雰囲気になったとき、いつもその写真を見ている。

 そしてもう一枚は、昨年十二月に撮ったとり八の女将の美登利さんとの写真(下の写真)。とり八は用賀にある居酒屋で、田山さんはパチンコが終るといつも仲間とここで飲んでいた。が、この写真がおそらくとり八での最後の写真だろう。このあと田山さんは人と会わなくなってしまった。舌ガンが悪化し、食べることも飲むこともままならなくなった。痛みをモルヒネで押さえていた。そういう状態だったから、人と会うことができなかった。田山さんは一人でジッと死と向き合っていたのだ。

 美登利さんは『パチンコ必勝ガイド』の田山幸憲追悼特集で、「まだ私の中では田山さんの死が受け入れられません」と書いている。僕も部屋でいつも田山さんの写真を見ているせいもあって、亡くなって三カ月経つのに、いまだに田山さんがフッと現れるような気がしている。もしかして、霊というものがあるとしたら、そういう気配を言うのだろうか。(2002年1月号)


田山さんと美登利さん


2 嘘つきは孤独の始まり

 十二月になると、なんとなく感傷的になって、五年前に家出したことを、ふと思い出したりする。あれから五年も経ったのだ。

 神蔵美子とつき合いだしたころ、まさか自分が妻と離婚することになるなんて、夢にも思っていなかった。それまで、結婚していながら何人かの女の人とつき合っていたし、だからといって、妻と仲が悪かったわけでもなかった。

 本気で好きになった人がいて、その人から「結婚して」と唐突に言われ、「する」と言ったことがあった。その人と本当に結婚したいと思っていたのだが、長い間一緒に暮してきた妻を見捨てることは結局できなかった。だから、僕はそういうことに対しては臆病者で、常にチラチラ家庭を振り返る迫力のない恋愛しかできないと思っていた。

 ところが、神蔵美子と付き合いだして二カ月も経たないうちに、紙袋二つ持って家を出てしまった。突然だったので、行くところがなくホテルを転々としていた。

 僕は、ときに後先考えず大胆な行動をとることがあって、そういうとき頭の中には一つのことしかない。そのときも神蔵美子といつも一緒にいたいということしか思っていなかった。打算的なことを考えたり、情にほだされたりしていたら、家出できなかったと思う。

 そのころの僕は、何もやりたいことがなく、どこにも行き場所がなく、夕方になると麻雀のメンバーを探したり、週の半分くらいは地下カジノに行ったりしていた。ギャンブルをやっているときが、緊張感があって一番充実していた。そういう僕のことを神蔵美子は、「はぐれ犬みたい」と言っていた。

 あのとき家出できて、神蔵美子と一緒になれて、本当によかったといまつくづく思っている。あのままの状態が続いていたらと思うと、背筋が寒くなる。

 神蔵美子と暮すようになって、家に帰るのが楽しくなった。初めて「家」という居場所ができたようだった。「最初だけですよ。生活になったら同じですよ」と言う人もいたが、五年経ってますます楽しくなっている。

 嘘をつかなくなったことも、楽しくなった要因だ。それまでは本当に嘘ばかりついていた。妻には愛人がいることを言えなかったし、一人目の愛人に二人目のことは言えなかったし、二人目の人に三人目のことは言えなかった。

 嘘を言い続けていると罪悪感で気持ちがどんどん沈んでいく。嘘で固めていたので、いつかばれるんじゃないかとビクビクしていた。嘘は心の毒だと思う。

 二人の間に嘘やごまかしがある以上、気持ちがちぐはぐで真に向い合うことができなくなる。だから、僕は、女の人と向い合い、本当に愛し合ったことがなかったのかもしれない。

 僕がつき合っていた女の人は、自分に都合が悪いことを隠そうとしたり、自分をよく見せようとしたり、お金が欲しくて嘘を言ったりする人が多かった。だから、女の人はみんな嘘つきだと思うようになっていた。僕も嘘つきだけど、お互い様じゃないかと思っていた。

 神蔵美子とつき合いだして驚いたのは、嘘がないということだった。コンプレックスがなく、媚びることもなく、おもねることもなく、いつもありのままだった。そういう女の人とつき合ったのは初めてで、この人といれば、僕もありのままになれるような気がした。

 僕は体中に嘘の毒が回り、ヘトヘトになっていた。早く嘘の世界から抜け出したいと思っていたのだろう。家出という大胆な行動をとったのは、そのことも関係している。

 神蔵美子のストレートな目に見つめられると、自分の中に嘘が染み込んでいることに気づかされる。嘘をついてるつもりはないのに、結果的に嘘を言っていることがある。自分を正当化したり、人からどう見られるかということばかり考えたりして、知らないうちに嘘をついているのだ。そういう嘘は、人から指摘してもらわない限り気付きようがないではないか。

 自分の中に嘘がなくなっていくと、心が浄化されたようにさわやかな気持ちになってくる。そして気持ちが強くなっていくように思う。つくづく、嘘は人を弱くし、人を孤独にする毒なんだなと思う。

 夫婦で嘘はいけません。(2002年2月号)


オトサンをしている美子ちゃん




3 男の真のしあわせは女を愛するときにある

 「聖書を信ずるかぎり、男の人生において最高に意義あることは、女を愛することにあるんです。女を愛するときにこそ、男の真のしあわせがあることに気づけず、政治にしろ事業にしろそのほかもろもろのことに、人生をかける値打ちがあると思われているのなら、本末が転倒してることになります。ひとりの女を愛しきるために、事業にしろ政治にしろそのほかのことにしろ、真剣に取り組んでいるのなら、実にすばらしいんですよね。」

 これは『隠されていた聖書 なるまえにあったもの』(太田出版)にある、イエスの方舟のおっちゃん、こと千石剛賢さんの言葉だ。

 この本は一九九二年に僕が千石さんの聖書の解釈に感動して作った本で、校正を含めて何回も読み返していたのだが、正直言ってこの箇所はピンとこなかった。

 それまで僕には、みんながアッという雑誌を作りたいとか、すばらしい文章を書いて褒められたいとか、お金を儲けたいとか、いろんな欲望があった。それは、自分が世の中で優位な立場に立ちたいということだが、千石さんの本を作ったころ、なんとなくそのことに空しさのようなものを感じるようになっていた。だからといって、女を愛することが真の目標だとは思えなかった。

 自分の目標が空しくなってくると、虚無のようなものが支配してきて、何事にも真剣になれなくなってくる。唯一ギャンブルをやっているときだけが熱中できて、生きている実感があった。

 妻のことは愛しているつもりでいた。しかし、僕のことを好きだという人が出てくると、フラフラとその人に近づき、いつの間にか別れられなくなったりしていた。「女を愛する」ことより、「女から愛される」ことの方が気持ちよかったのである。

 千石さんは「女を愛することに意義がある」と言っているのだから、女から愛されることには意義はないのである。というより、「女の人は、男を愛するものでなく、愛そうとしても愛することはできない」と言い切っている。

 それまでは男は女を愛し、当然女も男を愛してくれるものだと思っていたから、この言葉は衝撃的だったが、気持ちはやはり「愛されたい」だった。美子ちゃんと出合って家を飛び出したのも、美子ちゃんに愛されていると思っていたからだ。

 千石さんの言葉が、実感として受け取らされるようになったのは、美子ちゃんとうまくいかなくなったときからだ。

 一緒に住んでみると、二人の性格、考えがあまりにも違い過ぎて、美子ちゃんは僕に対して不安になっていた。美子ちゃんが、僕を機関銃のように言葉で攻撃してくるたびに、僕は自分が嫌われているんではないかと思って、自分の殻に閉じこもってイジケていた。

「僕が嫌いになったんなら別れてやる」と思っていた。

 千石さんはなぜ「男は女を愛することに意義がある」と言うのか--それは、「一体の人格を発見することにある」ということだ。

 聖書に「…人獨(ひとり)なるは善(よか)らず…」(創世記2-18)という言葉があって、ひとりではしあわせになれない。人間は神の言葉を聞いてどこまでもすばらしくなるようになっているが、神の言葉をひとりで聞いているだけではダメで、それを自分以外の誰かに伝えなければ、自分のすばらしさが現実に現れてこない。そこで、男の伝えることを受け止める人格として、女がつくられた。--簡単に言うとそういうことになる。

 二人だけが良ければいいという閉鎖的なことでなく、男は女を愛することによってすばらしい人間になっていく、つまりはすばらしい影響を人に与えられるようになるということだ。そして、平安で満ち足りた精神状態を獲得できるということである。

 美子ちゃんとのことで悩むたびに、千石さんの本を再び読むようになった。そして、千石さんに会いに博多に行くようになって、千石さんの言葉が実感となって響いてきた。

 美子ちゃんに何を言われようと、僕は美子ちゃんを愛しきると決心したら、二人の関係はすごくよくなってきた。二人の関係がよくなってくると、気持ちが豊かになってくる。

 千石さんは昨年十二月亡くなられたが、千石さんの言葉は僕の中でますます大きくなっている。(2002年4月号)


イエスの方舟のおっちゃんこと、千石剛賢さん




4 特別な関係

 神蔵美子と不倫関係になって、その三カ月後に妻のもとから家出した。なんの準備もなく、はずみで家を飛び出したようなものだから、最初は都内のホテルを転々としていた。しばらくして、美子ちゃんと方南町というところに部屋を借りた。そこで二人の新しい生活が始まるものだと思っていたのだが、事情がちょっと違っていた。美子ちゃんは「私と暮したら面白いと思うよ」と言っていたから、てっきり夫の坪内祐三さんと別れてから、その部屋に引っ越して来るものと思っていた。ところが、引っ越すには引っ越して来たのだが……ときどき坪内さんのところへ帰って行くのである。僕は妻とは二度と会わない決心をして家を出たので、アレレという感じだった。

 そのときはまだ、嫉妬の感情はなかった。「私と坪ちゃんは特別な関係だから」と美子ちゃんから聞いたとき、言葉に疎い僕は、「特別な関係」という言葉を「常識を逸脱した、世間に類を見ない関係」というふうにとらえていた。別れたら二度と会わないという方がヘンで、それまで仲良くしていたのなら、たとえ他に好きな人ができたって、仲良くするのが自然なんじゃないかと思ったりした。常識では、こういうことになったら相手の男は怒り狂うものなのに、坪内さんから、いま美子ちゃんと飲んでいるから来ませんかという電話があったりすると、美子ちゃんと坪内さんはやはり「特別の関係」なんだと思った。『噂の真相』の編集者から、この不倫関係をスキャンダルとして載せたいという連絡があったときは、それを冗談にしてしまおうと、坪内さんと企画会議をしたこともある。常識を逸脱して、いっそのこと三人で暮してもいいかもしれないと思うこともあった。

 美子ちゃんが坪内さんのところに行っているある夜、「特別な関係」という言葉をぼんやりと考えていたとき、「それって愛じゃん」とフト思った。そして、その瞬間から急に淋しくなってきた。そして、「僕とは肉体関係だけなのか」と、いじけた気持ちにもなった。嫉妬という感情が、初めて自分の中に生まれたのだった。それと同時に、いままで意識しなかったコンプレックスというものがムクムクと頭をもたげてきて、僕は元気がなくなってしまった。

 それから二年ほど経っただろうか、今度は美子ちゃんが元気がなくなって来た。坪内さんとの関係が変って行くことに、たまらなく不安な気持になっていったようだ。そして、「転げるように淋しくなった。」と、美子ちゃんは書いている。その原因は僕にもあると思うと、ますます自己嫌悪に陥り、相乗効果で二人ともどんどん落ち込んで行く。

 荒木経惟さんが、妻の陽子さんが亡くなったとき、空の写真ばかり撮っていたことを思い出し、「淋しいときには淋しい写真を撮ればいい」と美子ちゃんに言ったのは、自分を客観視することで、なんとかその状態から抜け出して欲しいと思ったからだ。そうしてもらわなければ、僕も絶望的になってしまうような状況にあった。

 それから美子ちゃんは、坪内さんと暮していた三軒茶屋あたりを歩き回って写真を撮ったり、古いネガを引っぱり出して焼いたり、古い日記を見ながら文章を書いたりしていた。それはすごく痛々しいものだった。その作業が三年も続くことになるとは、そのときは思ってもみなかった。

 そうしてできた写真文集『たまもの』を見ていると、辛かったあのころが思い出されて、だからこそよけいに懐かしくなってくる。その『たまもの』によって、美子ちゃんも楽になったし、僕も美子ちゃんと「特別な関係」を築くことができた。今度は『たまもの』を見た人たちが、楽な気持ちになってくれればと思う。(2002年6月号)


『たまもの』より



5 おっちゃんは生きている

 イエスの方舟のおっちゃんこと千石剛賢さんの本『隠されていた聖書』(太田出版)の中に、次のような箇所がある。 

「人間の認識能力をはるかに超えた、つまり、言いかたはへんなんですが、人間の認識の外側の事柄にぶつかったとき、現在の多くの人々は、低次元な自分の知性において認識してしまおうとします。それが実は大変危険なことなんです。それはバベルの塔を積み上げた当時の人々の愚に等しいものです。低次な人間の知性でもって神をわかろうとしている、また、わかったつもりになっている。このことは、信じたということばを使おうが、もったいぶって啓示を受けたというふうにごまかそうが、その内容はやはり、人間の分際で神を割り切ろうとしていることにほかならないと思います。」

 これは、パウロが神の声(イエスの声)を聞いたときにとった態度について千石さんが語った言葉で、「凡人なら、めくら蛇に怖じず、ということばがあるように、なんの恐れも感じないかもしれません。が、凡人の傲慢さはこの天才パウロにはかけらもなくなり、恐懼している姿がよくあらわされてると思います。」とも語っている。パウロがどういう態度をとったかは、聖書(使徒行伝九章三節~六節)を見てもらうことにして、ではなぜこのことを持ち出してきたのかというと、僕自身、自分の認識能力をはるかに超えたことを、いま知らされているからだ。

 それは、イエスの方舟でいま起っていることについてだ。千石さんは、昨年の十二月に亡くなられた。そのあと週刊誌に、イエスの方舟の人たちが、「おっちゃんは生きている。死んでいるのは私たちだ」と話している記事が出たのだが、そのことに疑問を持たず素直に受け止めた人が、はたして何人いただろうか。

「人間は死なない」これは千石さんが集会のときいつも話していたことだ。霊のことだとわかってはいても、実感としてはわからなかった。だから、イエスの方舟の人たちが、「おっちゃんは生きています」と言うたびに、凡人の僕は、「それはそういう気になっているだけだ。思いつめているだけだ」と、低次元の認識で割り切ろうとしていた。

 ところが、先日、イエスの方舟から手紙をいただき、その認識が変ったのだ。その手紙は、僕が『新潮45』(二〇〇二年三月号)に書いた「千石のおっちゃんはイエス・キリストだった」という記事のことから始まっていた。この記事について、イエスの方舟が発行している会報『エーシュ』で、ある人が、「千石のおっちゃんはイエス・キリスト」まさにその通りだが、「千石のおっちゃん」ではなく、「おっちゃんはイエス・キリスト」なのだと書いていた。千石は「古き人」の名で、おっちゃんは千石某という古き人を徹底的に嫌われ、否定し、古き人を押し出すことは一切しなかった、ということだ。それを読んでいたので、僕の記事が原因で何かまずいことでも起ったのかと、恐る恐る手紙を読み始めたのだが、そこには信じられないようなことが書かれてあったのだ。

 ある六十代の男性が膵臓癌にかかり、医師から助からないと言われていた。その男性が、『新潮45』の「千石のおっちゃんはイエス・キリストだった」を読み、そこに出てくる千石さんの本『父とは誰か、母とは誰か』と『隠されていた聖書』を読みたいと、娘さんを通してイエスの方舟にお願いし、『隠されていた聖書』を送ってもらった。その後、何度か手紙の交換があった。あるとき、その男性が造影剤を打たれ、もうろうとしてベッドで横になっているとき、中年の口ひげを生やした男の人が出てきて、「お腹、軽くなるよ。軽くなるよ」と言いながら、膝頭を優しく揺すってくれたというのだ。その言葉でいい気持ちになり寝込んだら、口ひげの男の人が膝の皮膚をむき始めた。古くて汚い皮膚がバリバリ剥がされ、新しい皮膚が出てきた。また気持ちよくなり寝込んだ。詳しく書くスペースがないのだが、そういうことがあったという手紙がイエスの方舟にきた。

 びっくりしたのは、そのことがあってから、その男性の膵臓癌はただの水泡に変っていたということだ。病院の長い歴史の中で初めてのケースらしい。

 この男性の膝を揺すってくれた人物のいろいろな特徴を重ね合わせると、どう考えても千石さんなのである。

 イエスの方舟からの手紙には、「おっちゃんは今、時間と空間を超えて、肉体をも自由自在に使い、また年齢もおっちゃんの好まれる年齢になることができます。私たちはこの手紙を通して、いよいよはっきりとおっちゃんの復活の事実を知らされました。」と書いてあった。

 低次元の認識では、誤診と夢が重なったものとなるのだろうが、僕は素直に手紙に書かれていたことを受け止めたいといまは思っている。

 妻の美子ちゃんに「千石さんは僕のところにはきてくれないね」と言うと、「それは、本当に求めてないからじゃないの」と言われてしまった。(2002年8月号)


イエスの方舟のみなさん


6 二人の楽園

 この夏も、美子ちゃんと高島に行った。と書いても、高島(たかしま)を知っている人は少ないだろうな。

 毎月、アクロス福岡というところで、イエスの方舟の集会が行われている。この集会に、年に五、六回は参加している。一人で参加するときは日帰りなのだが、美子ちゃんと行くときは、せっかく福岡まで行くんだから、どっか近くの温泉にでも…ということになり、北九州を一泊、二泊、三泊ぐらいで旅行することが多い。これまでに行ったところは、由布院、壁湯、蛍川温泉、長崎、柳川、そして唐津である。

 唐津に最初に行ったのは、去年の八月だった。唐津の名所は、虹の松原と唐津城ぐらいで、「ほかにどこかありますか」と旅館の仲居さんに聞いたら、「宝当神社(ほうとうじんじゃ)に行かれたらどうですか」と言う。なんでも、その神社にお参りすると宝くじが当るそうで、実際二億五千万円当った人がいたとか。その神社は、唐津から船で十分ほどのところにある高島にあると言う。

 海の向こうに見える、帽子を置いたような変った形の島が気になっていたが、それが高島だった。夜になると民家の明りがチカチカ光っていて、その明りを見ていたら妙に懐かしい気持ちになってきて、なんとなく高島に行ってみたくなった。

 翌日、水上タクシーで美子ちゃんと高島に向かった。定期便もあるのだが、一時間か二時間に一本の割りなので、水上タクシーが便利である。

 島は閑散としていて、船着場にうどん屋が一軒あるだけで、宝当神社にきた観光客が二、三人いただけだった。僕らは宝当神社には興味がなかったから、チラッと見て通り過ぎただけ。

 五十世帯ぐらいあるのだろうか、つつましい小さな家々が軒を連ねている路地を、美子ちゃんと歩き回った。なんだか、二、三十年昔にタイムスリップした気分になるようなところだった。どの路地も掃除が行き届いていて、ゴミ一つ落ちていない。ときどきすれ違う島の人はみな老人かオバサンで、挨拶すると気持ちのいい笑顔が返ってくる。山に登ると遠くが見えて気持ちいいだろうと思い、登れるかどうか聞いてみると、いまは草木が繁っていて無理だが、春にはお地蔵さんのお祭りがあるので、「春にはさらえますから」とオバサンが言う。

 そのオバサンに島を一周する道があることを聞き、その道を美子ちゃんと手をつないで歩いた。僕たちのほかには、だ~れもいない。

 二、三十メートルおきに、不動妙王とか千手観音とか釈迦如来を形どった石仏があって、それを見ると、この島の人たちの信心深さが分かる。そんな信心深い人たちが、なんで宝当神社なんかを作ったのだろうか。

 左手にコバルト色の海、点在する大小の島々。歩くたびに海の景色が次々と変って行く。右手は植物が生い茂った絶壁。人が住めるのは船着場がある海岸べりだけだ。海から吹いてくる風が気持いい。僕はズボンを脱いでパンツ一つになる。それを見て美子ちゃんが笑う。ふと、この島は僕たち二人だけの島、みたいな気分になってくる。

 一時間ほどかかって島を一周しただけなのに、夏の思い出として、その島のことがずっと頭に残っていた。

 そして今年もまた、福岡に行ったついでに一泊で唐津に行くことにした。

 福岡から唐津まで、電車は海岸沿いに走っている。鹿家(しかか)を過ぎたあたりから、あの台形の高島の側面が見えてきた。一年前、たった数時間いただけなのに、故郷に帰ってきたような、妙に懐かしい感じがしてずっと見ていた。

 唐津に着いた日の夜、花火大会があった。海岸に出て、ビニールシートを敷き、美子ちゃんと寝っ転がって花火を見ていた。花火の向こうに高島が見える。民家の明りがチカチカしている。高島の人たちも、花火を見ているのだろうかと思ったりしていた。

 高島に渡ったのは次の日の午前中だった。去年は水上タクシーに乗ったのは僕らだけだったのだが、今年は大勢の人が待っていて、水上タクシーは定員二十人なので、乗れない人も出ていた。なんでも、二、三カ月前、所ジョージが司会のテレビ番組で、宝くじが当る神社として宝当神社が紹介されてから、急にお客さんが多くなったそうだ。一日二千人の人が高島に渡った日もあったそうで、定期便に島の人が乗れなくてもめたことがあったとか。

 船着場のうどん屋も、テラス方式にして店を拡張していた。去年はなかった、まねき猫などの宝当神社グッズを売っていて、生産が間に合わないと言っていた。そういえばさっき乗った水上タクシーも、去年より五十円安くなっていたが、往復のチケットを九百円で買わされた。ここぞとばかりに儲けに走っているようだった。

 今回も同じように宝当神社には寄らず、路地を探索したあと、島を一周する道に入った。宝当神社は賑わっていても、この道を歩く人はいない。去年と同じように、ズボンを脱ぎ、パンツとTシャツで、美子ちゃんと手をつないで歩いた。

 この島を一周するだけのために、また来年もここに来るかも知れないと思うのだった。(2002年10月号)


島を一周する道(上)と、帽子のような高島(下)

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