• news
  • news
  • book
  • web
  • news
  • LINK
  • BLOG

  • sueiakira
  • facebook
  • twitter


『MEMO』(ワールドフォトプレス)

 これは『MEMO』という雑誌で、2002年1月号から2004年の1月号まで、足掛け2年間連載していた「昨日までの風景。」という連載で、写真は神蔵美子が撮っています。
 この連載を額田さんから頼まれたとき、1枚の写真とそれにまつわる小さな物語みたいなことを考えていたのですが、そんな器用なことは出来るわけもなく、例によって日記みたいな文章になってしまいました。でも、最初のころはちょっと気取って書いていて、いま読み返すと恥ずかしくなります。
 毎回写真がついていたのですが、7回目と8回目と13回目の掲載誌がなくなってしまい、写真を入れることができませんでした。それから、写真は印刷物をスキャニングしているので、見づらくてすみません。
(スエイ)


連載・第1~6回
連載・第7~13回

7 デン助物語

 その猫が、ウチの庭に来るようになったのは、今年の四月ごろだっただろうか。鈴がついた赤い首輪をつけていたから、どこかで飼われている猫だとは思っていたが、ひょっとしたら捨て猫かもしれないとも思っていた。その猫を美子ちゃんはタヌキと呼んでいたが、口の周りが黒いので、僕がデン助という名前にした(若い人にはなんでデン助か分からないかもしれないが)。

 庭先に煮干を置いてちょっと離れたところから見ていると、用心深そうにキョロキョロしながら近寄って来て食べ始める。食べ終るといつも忙しそうにどこかに行ってしまう。

 続けて来るときもあれば、四、五日来ないときもある。しばらくデン助の姿が見えないと、「デン助どうしたんだろうね」と、ちょっと淋しそうに美子ちゃんは言うようになっていた。

 デン助の現われ方は不思議で、庭を見ながら「このごろデン助が来ないなぁ」とか思っていると、ヒョッコリ現われたりする。まるでこっちの心を見透かしているかのようだ。ジッと僕の顔を見るので、僕もジッとデン助の顔を見ていると、なんだか無性に眠くなって気持よくなってくる。デン助には催眠術があるのかもしれない。

 美子ちゃんは、デン助になるべくウチに来て欲しいと思ったのか、ツナ缶をあげるようになった。その効果があって、日に三回来るときもあったようだ。

 デン助は僕たちにだんだん慣れて、最初のときのようなビクビクした感じがなくなってきて、ツナ缶を食べたあと、まるで僕らにサービスするかのように、庭石の上でゴロンゴロンと転げてみたりする。それを二人で見ているのが楽しい。

 もしデン助が捨て猫だったら、ウチの子になるかもしれないと思ったことがある。しかし、七月になって、とうとうデン助は飼い猫であることが確定してしまった。

 七月のある日、デン助の首についていた鈴のついた首輪がなくなっていることに、美子ちゃんは気がついた。ほかの猫とケンカして取れたんだろうかと話していたが、次に来たとき同じ首輪がまたつけられていたのだ。まさか、デン助が自分でつけるはずがないだろう。

 飼い主らしき人がいることが判明して、ちょっとガッカリしたのは事実である。

 そのころは、デン助は僕らにだいぶ慣れていて、触っても逃げなくなっていた。美子ちゃんがデン助をつかまえて頭を撫でたりしているとき、首輪の裏に「マキ、キュー」と名前らしきものが書かれているのを発見したので、「マキ、マキ」と呼んでみたが反応がなかったそうだ。「それは、マキさんところのキューちゃんじゃない」と僕が言うと、「あ、そうか」ということで、次に来たとき二人で「キューちゃん、チューちゃん」と呼んだのだが、やはり反応がなかった。

 この話を、僕がインターネットで書いている「絶対毎日スエイ日記」に書いたら、それを読んでくれている『バリヤバ』の松田君から、その猫は牧さんちのキューちゃんで、牧さんちは造園業をやっているというメールが来た。松田君のお姉さんが、牧さんと友達だとか。

 しばらくして、今度は牧さんから「はじめまして」というメールが来た。松田君からアドレスを聞いたのかもしれない。

 先週は五日も帰らないので事故にでも合ったのかと心配していたそうだが、何食わぬ顔で帰って来て、お腹も空かしていないし汚れてもいないので、「これは絶対別宅がある」と確信したそうだ。「これからもおじゃますることがあると思いますが、デン助としてかわいがってやって下さい。一度主人とあいさつに行きたいと思っております」とメールは結んであった。思わぬ展開になって来た。

 しかし、僕らが「デン助」と呼ぶとミャーと鳴くのに、「キューちゃん」と呼んでも反応しないのはなぜだろう。それに、牧さんが「五日も帰らない」と書いていたころ、デン助はウチに来ていなかったのだ。これらを総合して考えると、ウチ以外にも行く家が何軒かあるに違いない。しかも、それぞれのウチで、それぞれ違う名前で呼ばれているのだろう。デン助はその名前を全部覚えていて、それぞれに対応しているのではないだろうか。そう考えると、ものすごく頭がいい猫のように思える。

 確かに表情も、ときどきウチに来るほかの猫より豊かである。サボテンの匂いをかいだりする情緒もある。

 猫がとりもつ縁で、その後牧さんのご家族と交流が始まった。デン助について新たに分かったことは、僕らはデン助をてっきり雄だと思っていたが、実は雌だったということ。牧さんちにはもう一匹猫がいて、デン助はその猫と仲がよくないということ。デン助は網戸を開けられないので、帰って来たとき留守をしていると、またどこかに行ってしまうということ。デン助の放浪癖の一因は、こういうところにもあるのかもしれない。

 いつか美子ちゃんと夜の散歩をしていたら、よその家の庭にデン助がいるのを発見したことがある。そのときは、大きいガマガエルと遊んでいた。美子ちゃんが小さな声で「デン助」と呼ぶと、こっちを見てミャーと返事をした。

 そのデン助が最近あまり姿を見せなくなった。また新しい行き場所を見つけたのかもしれない。美子ちゃんが、「ウチも猫飼おうかなぁ」と言う今日このごろである。

 という原稿を書き終った午前十時ごろ、お茶でも飲もうと階下に降りて庭を見ると、デン助がキョトンとした表情でこっちを見ていた。不思議な猫である。(2002年12月号)

8 猫との関係

 昨年の十月から、うち専用の猫を飼い始めた。

 ときどき庭に姿を見せるうち専用じゃない猫は、デン助、デカ顔、黒ホッカと三匹もいるのだが、猫がうちに来るのは猫の気紛れなのでいつ来るか分からないし、中に入れないからガラス越しの対面だけなので、そのうちに専用の猫を飼いたいと美子ちゃんが言い出すことは予測していた。

 そして、美子ちゃんから「ペットショップで猫を予約してきたよ」と聞いたとき、「あ、いよいよか」と思った。

 別に、猫を飼うことが嫌ではないのだが、僕の前の奥さんのことがある。前の奥さんは、もともと猫が嫌いだった。あるとき、僕が知り合いの女の子からどうしてもと言われ、断わり切れなくなり、トラ柄の雄の子猫をもらうことになった。奥さんに言うと反対されるので、とりあえず見せちゃえばなんとかなるだろうと、ダンボールの箱に入れて連れて帰った。すると、奥さんが、「何、それ」と言うので、「猫だよ。可愛いよ」と言うと、とたんに恐い顔になって「捨ててきて!」とキッパリ言う。困って、とにかく一晩だけ置かせてもらうことにした。

 ところが、一夜明けたら、子猫がカーテンに飛び付いてユラユラ揺れているのを、笑いながら見ている。ものすごい元気な猫で、ダダダッと走ったかと思うと、壁に飛び付き、ガガガガッと壁に爪あとを残しなが降りてくる。

 そのころ、新築の建て売り住宅に住んでいたのだが、わずか一カ月で壁や柱は引っ掻き傷でボロボロ、カーテンの下の方は穴だらけになって、あっという間に築三十年になってしまった。まぁ、築三十年はどうでもいいのだが、前の奥さんはそのときから異常な猫好きになってしまい、猫がどんどん増えてしまい、多いときは中に四匹、外に(通い猫=ノラ)六匹もいた。子供がいなかったせいもあって、前の奥さんは猫を自分の子供みたいに大切にしていて、それがちょっと気持ち悪かった。

 猫は僕が子供のころも飼っていた。というか、家の周りにいるといった感じで、エサもほとんどやったことがなかった。猫は勝手に山鳩なんかを獲って来て(山奥だったので)、それを自慢げに見せにくるから、その山鳩を取り上げて焼いて食べたりしていた。猫とはそういう関係だったので、猫は猫であって、猫を人格化するのはなんだか気持ち悪かったのだ。

 昨年十月の終わりごろ、美子ちゃんが猫を予約したというペットショップに、その子猫をもらいに行った。キジ柄の可愛い雌の子猫が、サークルの中にいた。砧公園に、まだ目が開かない状態で二匹捨てられていたのを誰かが拾って来て、獣医さんに連れて行って健康診断してもらってから、自分とこでは飼えないからペットショップに持って来たらしい。一匹はすでにもらわれて行ったそうで、尻尾の曲がった方が残っていた。

 家に帰って、そのペットショップで買ったサークルを組み立て、その中に入れていたのだが、三日もしないうちにサークルは必要なくなった。サークルに入れるのは可哀想ということになり、一階のリビングのみ自由に走り回ってもいいことになった。

 猫ジャラシをヒラヒラさせると、ダダダダッとものすごい勢いで飛んで来る。その走り方がまるでネズミのようで、毛の色も柄がはっきりしないネズミ色だったので、「名前をネズミにしようか」と僕が言うと、「えー、ネズミ?」と美子ちゃんは不満そうだったので、女の子らしく「ねず美」にすることになった。発音は、語尾を上げるとネズミになるので、ねず美の美を下げる。

 美子ちゃんは、「厳しくしつけないと」と言って猫の行動範囲をリビングだけに制限していたのに、いつの間にか「ねず美は、二階へ行っても自分で降りて来れるよ」とか言っている。糸井重里さんと池谷裕二さんとの対談集『海馬』という本を読んで、行動範囲を広くした方が猫の海馬(脳の記憶装置)が育つとか言っている。押入には入れないと言っていたのに、入りたいのに入れないと猫にストレスがたまるからと、押入やクローゼットを開けっ放しにするようになり、テーブルの上には上げないようにしようと言っていたのに、食べ物がなければ上がってもいいということになり、障子は絶対破らせないようにしようと言っていたのに、もうボロボロになってしまった。

 また築三十年になりつつあるのだが、まぁ、築三十年はいいとして、美子ちゃんは小さいころ、乳母のような猫に遊んでもらっていたそうで、猫を猫と思わないところがあるのが心配だった。

 ところが、二カ月半経ったいま、猫を人格化したほうがいいのではないかと思うようになっている。このごろ、家に帰るとき、美子ちゃんとねず美が待っていると思うと嬉しいし、ねず美を通して美子ちゃんと会話することも多くなったし、ねず美が来てから美子ちゃんと喧嘩したことが一度もない。

 猫は人間に飼われ始めてから五千年も経っているので、人間を癒す術を心得ていて、それが遺伝子の中に受け継がれて来たのだろう。猫によって人間が癒されるのなら、どんどん人格化した方がいいに決まっている。

 ということで、わが家のねず美は、すでに猫ではなく家族の一員になっている。食事のときは膝の上に来るし、僕が原稿を書くためパソコンに向かうと、キーボードの上に上がって来て、勝手に文字を打ってしまうし、寝るときは、二人で寝ているフトンの間に入って来て、ゴロゴロ言っている。

 僕が家に帰らないことが多かったから、毎日淋しかったんだろうなと、離婚して六年も経ったいまごろになって、前の奥さんと猫たちのことを思い出している。(2003年3月号)

9 夫婦喧嘩と猫

 夫婦喧嘩は犬も食わないというが、猫はどうなんだろう。まぁ、猫はもっと食わないか。

 その犬も食わない夫婦喧嘩のことを書こうと思っている。

 夫婦喧嘩は、だいたい二日から一週間ぐらいで収まってしまう。二日というのは僕らのことで、一週間というのは知り合いの場合だが、他の事例を知らないから、だいたいこんなものだと思っているだけで、一年とか二年の長期戦でやっている夫婦も、世の中にはいるのかもしれない。

 でもまぁ、だいたいはすぐ仲直りすることが多い。だから、第三者の目から見たら、「いったいあの騒ぎはなんだったんだろう」ということになるから、誰も関心を示さない。つまりは、犬も食わないということになるのだろう。

 僕の両親の場合は、夫婦喧嘩して仲直りしないまま、母親は自殺してしまった。正確に言うと心中というやつで、隣の家の若い男を道連れに、ダイナマイトで爆発してしまった。

 母親に男ができたのを父親が知ってから、夫婦喧嘩が絶えなかった。それがだんだんエスカレートしていき、母親を殴ったり蹴ったり、物を投げつけたりするようになった。まだ小一だった僕は、喧嘩が始まると怖くて、弟と部屋の隅でジッと身をひそめていた。

 あるとき、母親に火鉢を投げつける大喧嘩があって、母親は着の身着のままで家を飛び出し、それっきり帰ってこなかった。そして一週間後、家から近い山の中で、恋人である隣の家の若い男と、ドカンと爆発したのだった。

 そういう両親の、収まらない夫婦喧嘩を見てきたせいか、夫婦喧嘩がものすごく苦手というか、怖いのである。

 この前妻と喧嘩したときは、本当に別れようと思った。すぐに、そういう気がないことは分かったが、家を出てホームレスになったら、どうやって暮らそうかと考えたりしていた。夫婦喧嘩で家を飛び出し自殺した母親のことが、ふと脳裏をよぎった。自分の気持ちを制御できない母親の血も受け継いでいるし、母親を殴るヒステリックな父親の血も受け継いでいるのだ。

 自分がヒステリックになるのが嫌だし、自分が制御できなくなる怖さもあって、喧嘩になりそうなときは、いつも心のシャッターをピシャッと降ろすクセがある。そして、その場から早く逃れたい気持ちになってくる。それが妻を不安にさせ、さらにイライラさせてしまう。

 本当はこの時点で、妻がイライラしている原因を取り除くようにすればいいのだが、それが面倒くさい。というより、心を閉ざしているので、そういうことが考えられない。

 妻は、僕の怒りの感情を刺激するようなことを言い出す。僕は心を閉ざしていて、つまり一人の状態なので、人からそんなことを言われる筋合いはないなんて思って頭にくる。それに追い討ちをかけるように、グサッグサッと心に突き刺さる言葉が、妻の口から次々出てくる。ついに、キレて怒鳴り散らすようになる。そんな自分を軽蔑しているもう一人の自分がいる。

 このごろ、このキレるということは、悪いことではないと思うようになった。エゴ丸出しで、言いたいことを言ってしまったら、心のシャッターが開くような気になったりするのだ。だから夫婦喧嘩というものは、お互いの親密度を高めるために有効なのかもしれないが、できればしない方がいいに決まっている。

 夫婦喧嘩を防ぐ方法、それは猫を飼うことである。実際、わが家に「ねず美」(猫・牝)が来てから、夫婦喧嘩の回数が減った。

 猫は人間のイライラを取り除いたり、怒りの感情を静める技を持っている。夫婦喧嘩中に障子をバリバリ破いて、障子の桟に引っ掛かってもがいているねず美を見て、「バカ…」と呟いて妻の顔に笑顔が戻ったりする。

 妻が泣いているとき、ねず美が心配そうに寄り添っていたそうだ。それを聞いたとき、なんで自分はそうできないんだろうと、猫に嫉妬した。猫から学ぶことは多い。

 いまの人たちは、自意識が異常に膨らんでいるから、夫婦喧嘩が絶えないんではないかと思う。そのせいかどうかは知らないが、このごろ猫を飼う人が増えているらしい。(2003年5月号)




10 家事の楽しみ

 洗濯物をたたむのが好きである。

 山のようになった洗濯物の中から、まずタオルだけを選んでたたんでいく。シワを伸ばし、端と端を合わせ二つに折り、それをもう一回二つに折り、今度は左右に二つに折る。ピシッと端と端が揃って、きれいな正方形になったら嬉しい。タオルはピシッときれいに重ねられるし、肌触りもいいので、タオルをたたむのが一番好きである。

 次にパジャマやシャツなどの大物に挑戦する。袖があったりして複雑なので、たたみ方にも工夫がいるが、その分きれいにたためたときは嬉しい。

 次はTシャツやランニングなどの下着類。これはわりと簡単に二つか三つに折るだけで、事務的にサッサと片づけていく。

 ハンカチは、きれいに四角にたためるのだが、小さいからタオルのような迫力がないのが悲しい。

 最後に残っているのは、パンツと靴下。このごろはズボンのこともパンツと言うが、下着の方のパンツである。

 パンツ類はとりあえず二つに折って重ねていくのだが、きれいにならないから好きではなかった。特に、パンティはどうやっていいのか分からなかったので、たたまないでそのままにしておいた。そういう話を知り合いの女性にしたら、パンティのたたみ方は左右から少し折り込んで、下の部分を折ってそれにはさみ込むといいと教えてくれた。そうすると、確かにきれいに四角になるので、みんなそういう細かいことまでよく考えているんだなと思った。そうやってたたむと、パンティをたたむのも楽しくなる。

 靴下は同じ物を二つ選んで合わせていくのだが、数が多いとパズルを解くみたいな楽しみがある。数が少なくなっていくにつれ、選ぶのも早くなっていくのだが、最後にどうしても一、二枚片方が残ってしまうのはどうしてなのだろう。

 食器を洗うのも好きだ。

 洗う前はだいたい流しに汚れた食器が山積みになっていて、野菜のクズやら卵のカラなど料理の残骸が散らばっている。きたなければきたないほど、やる気になってくる。

 まずスポンジに洗剤をつけ、大きい食器から洗っていく。皿、お碗、茶碗、湯のみと洗っていくと、次第に流しが片づいていく。食器は水切りにきれいに並べ、最後にゴミをビニール袋に入れ、フキンで流し周りを拭いて終り。なんだろう、この気持ちの良さは。ものが整理、整頓されていく嬉しさなのだろうが、それだけではないように思う。

 家事をやり始めたのは、美子ちゃんと暮らすようになってからだ。二人とも仕事を持っているので、家事は分担しようということで、最初のころは義務みたいに思ってやっていたのだが、やってみると家事は自分に向いているということが分かってきた。

 料理にも以前挑戦したことがあるが、これはもう美子ちゃんにかなわないので、僕はあと片づけ専門である。

「家事なんて男のすることではない」と、家事を馬鹿にする男も多いが、男は家事をした方が絶対にいい。家事をやっていると、いままで価値があるように思っていた、地位だ、名誉だ、金だ、リーダーシップだといったものが、どうでもいいように思えてくる。言ってしまえば、それらは「権力」なのだが、その「権力」が不幸の始まりではないかと思えてくる。

「会社が命」みたいに思っている人は、最近少なくなったのだろうが、会社に命を預けても、会社は何も保証してくれないことは、証明ずみである。突然リストラになって、家事も手伝わないで家でゴロゴロしていたら、奥さんに嫌がられ「濡れ落葉族」の仲間入りになるのがオチである。

 これから、男が救われるためには、マッチョな幻想を打ち砕くことではないだろうか。幸せはマッチョな幻想の中にあるのではなく、夫婦で仲良く暮らすことにあるということに気づかなければいけない。そういう意味でも、家事は大事なのだ。家事をしていると、どこの八百屋のダイコンが安くておいしいとか、夫婦共通の話題もできて話もはずむ。

 これを書いているいま、美子ちゃんは風邪を引いていて、僕が洗濯したり、ゴミを出したり、猫のトイレを掃除したり、洗濯物を干したり、フトンを干したり、クリーニング屋に行ったり、部屋の掃除をしたり、家事を一手に引き受けている。

「家事って大変だけど楽しいね。ずっと家事だけやってたいなぁ」と言うと、「嫌だ~、そんなの」と言って美子ちゃんは笑うけど、僕はまんざら冗談でもないのである。(2003年7月号)




11 わが家の庭の猫模様

 わが家の庭に猫がよく来る。去年の四月ごろから来だしたのがデン助だ。その少しあとから、黒ホッカが姿を見せるようになり、そして顔デカが来るようになった。

 デン助は、植物の匂いを嗅いだり、庭で昼寝したり、「デン助」と呼ぶとミャーと返事したり、なかなか情緒がある猫で、「今日はデン助来ないかなぁ」と、美子ちゃんとよく言っていた。

 そんなデン助のことを、インターネットの日記に書いたら、飼い主の牧さんという方からメールが来て、牧さん一家とのつき合いが始まった。猫が取り持つ縁である。

 そのデン助がこのごろ来なくなった。来なくなった原因は、僕らがなんとなくデン助を嫌いになったことが、デン助に伝わったからではないかと思う。

 デン助は牝なのに、一カ月も放浪の旅に出たりするらしい。その放浪中、うちにもときどき来て何か食べて帰ったりしていた。

 デン助を可愛がっている家は、わが家の他にも何軒かあるらしく、放浪のときはそれらの家々を回って生活しているみたいで、一カ月も家に帰らないでも平気ということは、それなりに頭のいい猫だから、僕らがデン助を嫌い始めたことをすばやく察知したのではないかと思う。

 デン助をなぜ嫌いになったかというと、昨年の十月の終わりごろ、わが家でねず美という子猫を飼い始めてから、デン助がどんどん変わって来たからだ。ねず美に向かって、ガラス越しに飛びかかってみたり、僕らが見ているところで、わざとらしくオシッコを引っかけてみたり、だんだん攻撃的になって来たのだ。しかも、顔がどんどん大きくなり、人相、いや猫相がだんだん不気味になって来た。

 自分のテリトリーだと思っていたところに、見知らぬ猫が来たもんだから、攻撃的になるのは猫の本能だろうし、顔が大きくなったのは、冬にそなえて毛が増えて来たせいだろう。何もデン助が悪いわけではないのだが、人間は勝手なものである。

 デン助が来なくなった代わりに、黒ホッカ君がよく来るようになった。

 黒ホッカ君は完全にノラだが、動作が鈍く、おとなしい猫だ。雄だけど、たぶん去勢されているんだと思う。

 白と黒のツートンカラーで、黒いホッカムリをしているように見えるので、美子ちゃんが黒ホッカと名づけた。

 いつも、ふと気がつくと庭に来ていて、ガラス越しにジッとこっちを見ている。その姿に、なんとなく哀愁がある。

 黒ホッカ君が来ると、美子ちゃんはいつもミルクを皿に入れて外に置く。ペロペロペロと皿まで舐めている。

 ねず美も黒ホッカ君のことが好きらしく、黒ホッカ君が来るとそわそわして、ガラス越しに黒ホッカ君と鼻をくっつけたりしている。

 ねず美をまだ外に出していないのだが、「外に出したら、ホッカ君がいろんなところに連れて行ってくれるかなぁ」と、美子ちゃんは言っていた。

 その黒ホッカ君も最近来なくなった。代わりに毎日来るようになったのが、顔デカである。

 顔デカは名前の通り、顔のデカイ雄の飼い猫で、ちょっとずうずうしい猫なので、僕らにあまり好かれていない。

 先日、網戸を顔でグイと押し開け、家の中に入って来て、ねず美の食べ残しのエサ、いやゴハンを盗み食いしていた。その前は、やはり網戸を開けて入って来て、ねず美の上に乗っかろうとしていた。寸前のところで美子ちゃんが見つけて追い払ったのだが、もう少しでやられるところだった。

 顔デカの首輪はしょっちゅう替わっていて、それもどこにも売っていないような高級な首輪だと美子ちゃんは言う。家では相当可愛がられているようだ。

 美子ちゃんは、顔デカの首輪に、うちの電話番号を書いた紙を縛りつけてみようかと言うが、どんな人が飼い主か分からないので僕は反対した。牧さんみたいないい人だといいが、「うちの猫にヘンなことしないで下さい」とか言われたら嫌だ。

 黒ホッカ君が来なくなったのは、顔デカが追い払ったんだと美子ちゃんは言うが、年だから病気になったのかもしれない。雨が降ったりすると、どこにいるのか心配になる。

 黒ホッカ君はもう来ないのだろうか。夕方になると、美子ちゃんが「ホッちゃーん、ホッちゃーん」と呼んでいる。その声がちょっとせつない。 (2003年9月号)


顔デカと悩殺ポーズをとるねず美


12 時間の映画「赤目四十八瀧心中未遂」

 一昨年の四月二十九日、美子ちゃんと近所を散歩していたら、着流しで短髪の上野公園の西郷さんの銅像みたいな人が、子供を抱いて向こうから歩いて来る。ひょっとして荒戸源次郎さんでは……と思ったら、まさしくそうだった。

 荒戸さんは恐い人だと思っていた。「天象儀館」のころから面識はあるが、気に入らないタクシーの運転手の首を、うしろの座席から足で絞めたとか聞くと、小心者の僕は荒戸さんになるべく近寄らないでおこうと思っていた。

「天象儀館」のあと、荒戸さんは映画に転向し、「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」や「どついたるねん」などの名作を、次々プロデュースしていく。

 監督第一作めは「ファザーファッカー」だった。このとき、友達の秋山道男さんが出演していたこともあって、荒戸さん縁りの人達とロケ地の長崎まで表敬訪問した。ついでにエキストラとしてキャバレーのシーンに出させてもらい、僕だけ台詞をもらった。

 そのあと、荒戸さんとは会っていなかった。映画の借金が何十億とあるという噂を聞いたことがあるから、ヤバイ人達から逃げているのではないかと思ったりしていた。

 その荒戸さんにバッタリ会ったのである。久し振りに会った荒戸さんはちょっと年を取っていて、そのぶん昔より恐くなくなっていた。聞くと、僕らが住んでいるマンションのすぐ近くに、荒戸さんも住んでいたのである。

「お茶でも飲みましょう」ということで、近くの喫茶店に入って、そのとき車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を映画にするという話を聞いた。ちょうどそのころ、僕も車谷さんの書いたものをよく読んでいたので、偶然って重なるものだなぁと思ったりした。

 それから二年四カ月経った八月の終わりに、和紙に印刷され、血判みたいな判子が押された「赤目四十八瀧心中未遂」の試写状が送られてきた。ずいぶん仰々しい試写状で、その凝り方も荒戸さんらしいと思った。

 試写会が待ち遠しかった。荒戸さんも「これでダメだったら映画から足を洗う」と言っていたし、撮影に一年以上かけていると聞いたし、面白くないはずはないと思っていた。映画を観る前からわくわくしたのは、本当に久し振りのことだった。

 噂に聞いていたが、ものすごく長い映画だった。七時に上映が始まり、終わったのが九時四十分だったから、二時間四十分の映画である。しかし、まったく退屈しなかった。

 主人公の生島与一に新人の大西滝次郎、綾の役に寺島しのぶ、焼鳥屋の女将・勢子に大楠道代、彫師・彫眉に内田裕也という配役が、この俳優以外に考えられないというぐらい、役柄にピッタリハマっていた。

 打ち上げの席に、主人公を演じた大西滝二郎さんがいたのだが、最初まったく気づかなかった。映画の中でも、最初はボーッとした感じで存在感が薄いのだが、存在感が薄いがゆえに、観ている僕らは自分をそこにダブらせて、尼崎の異様な空間に、主人公とともに次第に引きずり込まれていくようになる。

 主人公は、たどり着いた尼崎の古いアパートの一室で、毎日毎日臓物を串に刺している。そのアパートには、彫師や娼婦やヤクザといった、社会の裏側で生きている人達が住んでいて、主人公はその人達と次第に関わりを持っていくことになる。

 時間が経つにつれ、主人公の存在がだんだん大きくなっていくのだが、そのころになると観ている僕らもズッポリ映画の中に入っているのだ。こういう仕掛けは計算してできるものではないだろうが、大西滝次郎さんの不思議な存在感と、映画が長いということで、それが可能となったのだろう。

 荒戸さんとバッタリ会ってから二年四カ月、この映画の上映時間が二時間四十分、これも偶然の一致だが、単なる数字合わせということではなく、その時間を意識させてくれる映画でもあった。

 僕らは、毎日毎日時間に追いまくられているが、社会からズレたところにまったく違った時間の流れがあるのだ。この映画ができるまでの時間もそうだし、映画そのものが興行を無視した時間でもある。その時間の流れを観ているみんなで共有する、そんな映画ではないかと思った。

 荒戸さんは、「今度は四時間の映画を撮りたいね」と冗談で言っていたが、僕はぜひ撮って欲しいと思っている。(2003年11月号)


試写会のあとの飲み会で見かけた大西さんは、
映画の中で生島与一を演じた大西滝次郎とはまるで別人で、
撮影が終わったあとは制作スタッフとして働いていた。


13 秋山郷の発電所

 上信越自動車道路を飯山で降り、117号線で大割野まで行き、そこから左に曲がって405号線に入る。レンタカーを運転するのは美子ちゃん、免許のない僕は、例によって助手席で地図を見ながらカーナビの役。といっても、道は単純で迷うことはない。

 しばらく行くと、左右が切り立った高い山になり、その渓谷を流れる中津川が見えてきた。秋山郷の入口である。

 秋山郷に入ると、とたんに紅葉がきれいになってきた。僕が育った岡山の山の3倍くらいはありそうな高い山々が、赤や黄色や橙色に彩られ、太陽の光りに輝いている。白樺の木が多く、その白い幹や枝がさらに山を美しく見せている。まるで絵に描いたような景色で、こんなにきれいな紅葉の山を見たことはこれまでなかった。

 車を止めて休憩。紅葉の山を写真に撮ろうとカメラを取り出し、ファインダーを覗くのだが、どうもつまらない。山の雄大さが写真では撮れないのだ。やっぱ、こういうのは肉眼で頭に焼きつけるしかないと思うのだが、あちこちで紅葉を撮りに来たアマチュア・カメラマンが、山にカメラを向けている。 

 連休を利用して、三泊で野沢温泉に行くことにしたのだが、いつも泊まる民宿が二泊しか取れず、じゃあ一泊は秋山郷に泊まって熊鍋を食べようということになった。

 秋山郷には、四年ほど前に一度来たことがある。そのときも美子ちゃんと一緒で、野沢温泉から山伝いのクネクネした道を通って秋山郷に入った。そのころはまだ美子ちゃんとギクシャクすることが多く、野沢温泉で喧嘩になり、ほとんど口をきかないままその道を走った。道が細くクネクネしていて運転に緊張を要するので、美子ちゃんはなおさらイライラしていて、「黙ってないでなんか言ってよ!」と言うのだが、なんにも言葉が出てこなくて、いたたまれない気持ちになっていた。景色も何も覚えてなくて、いたたまれない気持ちだけが秋山郷の思い出だ。

 それから四年の間に、僕らはうんと仲良くなった。だから、今回はルンルンの秋山郷である。

 しばらく行くと、右手に発電所が見えてきた。送電線が景観を壊しているなぁ。

 穴藤、前倉、大赤沢などの集落を通り、今夜泊まる小赤沢の民宿「出口屋」に三時ごろ着いた。なんの変てつもないただの民宿。変わったところといえば、廊下に大きな熊の毛皮が二枚ぶら下がっているところだ。「これはどうしたんですか?」とご主人に聞くと、去年撃った熊だと言う。ここは代々マタギの家だそうだ。

 浴衣に着替えて、美子ちゃんと小赤沢温泉「楽養館」へ行く。看板に「赤湯」と書いてあったが、お湯は泥色だった。

 長湯は苦手なのですぐに出て、美子ちゃんが出てくるまで、土産物屋で買った「平家の谷」という本を読む。市川健夫という人が秋山郷のことを書いた本だ。そのタイトル通り、平家の落人が隠れ住んだのが秋山郷の起こりとか。

 秋山郷は十二の集落からなる。自動車道路ができるまでは陸の孤島で、特に冬は四メートルの積雪に被われ、外部とまったく遮断されていた。重病人が出ると、雪の中を大割野まで何日もかかって医者を迎えに行くか、戸板の上に患者を乗せて運んでいたらしい。当然お金の蓄えがないと命を落とすことになる。

 命を落とすといえば、飢餓で全員死に絶えた村もあるらしい。明治二十年の凶作のときは、山の草が生えなくなるまで、草の根を掘って食べたそうだ。

 田んぼが増えたのは大正時代からで、それまでは焼畑農業が中心で、粟、荏草、大豆、ソバなどを栽培していた。米は病人が食べるものだったのだ。

 なぜ大正時代に田んぼが増えたかというと、大正中期に大規模な発電所工事が行われ、莫大なお金を溜めた人たちは、積極的に開田を進めたからだ。

 この発電所の工事は、雑魚川、魚野川の合流点の切明から水を取り入れ、穴藤まで導水管で二十キロも引っぱる大工事で、飯場には三千人以上の労働者が働き、芸者や女郎まで入ってきたとか。賃金が高く、村人もこぞってこの工事現場で働いてお金を残した。その好景気は、なんと十三年も続いたとか。

 この発電所の工事は、秋山郷を大きく変えたのではないかと思う。つまり、資本主義経済が入ってきて、貧富の差が生まれ、贅沢をする者も出てきて、人々の心も変わったのではないだろうか。僕でもときどき資本主義に押しつぶされそうになるぐらいだから、純朴な大山の人たちはイチコロだったに違いない。

 文政十一年に秋山郷を訪れ、「秋山紀行」を書いた鈴木牧之が、その動機として「秋山の人々は皆健康である。それは里人が煩悩に心なやまし身を色慾に傷つけて、あくせく生活するのとは違い、古代の人さながらの暮らしをしているからだ」と言っていたそうだ。

 というところを読んだころ、美子ちゃんが温泉から出てきた。

 熊鍋は、肉がちょっと固かったが、体がポカポカ暖まるようだった。(2004年1月号)


Copyright © 2013 deco company limited all rights reserved.
本ホームページに掲載の文章・画像・写真などを無断で複製することは法律で禁じられています。
All rights received. No reproduction or republication wihtout written permission.